江戸時代、沼田からひとりで江戸に上京し大商人へと登り詰めた塩原太助。
しかし成功後もおごる事は無く、貧しい人や弱い立場の人の為にコツコツ働き、また夜道を照らす灯籠を建てたり、道路を整備したりと社会貢献活動に人生を捧げました。
そして彼の死後、その成功を明治の天才落語家であった三遊亭圓朝(えんちょう)が『塩原多助一代記』という創作落語にして披露したことで、塩原太助の名前は一気に世の中へ広まっていったのです。
さてその落語『塩原多助一代記』の中には、太助本人はもちろん、彼の人生に深く関わりのあった人物が多数登場しています。
その中でも重要な存在であるのが、太助を陰でずっと支え続けた妻『お花』。
太助は江戸で炭屋を営み大成功を収めましたが、お花もその商売を手伝い、時には重たい炭を運ぶ為、手が真っ黒になるまで働いたといいます。
そして落語の中には2人の馴れ初めも描かれているのですが、そのお話が何とも興味深いのです。
そもそもお花は、当時の江戸の大商人であった藤野屋の娘。
ある日、藤野屋の主人である杢右衛門(もくえもん)は多助の働きぶりに大層感心し、一人娘のお花を多助の嫁にやりたいと尋ねてきます。
しかし当初、太助は全く聞く耳を持ちませんでした。この時既に太助は一目置かれる商人となっていましたが、元はと言えば田舎の農民。そんなお嬢様と自分が釣り合う訳がないと考えていたのです。
しかしそれからしばらく経ったある日、今度は太助の友人である久八(きゅうはち)から『親戚に年頃の娘がいて嫁の貰い手を探している。もし良ければ貰ってくれないか?』と相談を持ち掛けられます。
その時太助は『久八の親戚ならば自分とも身分相応』と考えて結婚を承知するのですが、いざ会ってみると、そこに立っていたのは豪華な振袖を着たお花。
実はお花は、太助の嫁になりたい為に裕福な親元を離れ、自分もよりも身分の低い久八の親類の養女になっていたのです。
しかし太助は、『そんな振袖を着るような娘は自分の家の家風に合わない』と言い放ち、この縁談を解消しようとします。
するとお花はすぐさま、近くにあった薪割りで自分の振袖の袂を切り落とし、『あなたの嫁になったらこのような振袖はもう必要ありません。』と言い、切った振袖の袂を太助に差し出したのです。
それを見た太助はさすがに観念して、最終的にはお花を嫁に迎えることを承知したと言います。
もちろんこれは創作噺の一部なので、どこまで本当なのかは分かりません。しかし、どれだけ自分が大商人になろうと、おごることなく人生を過ごした太助の性格をよく表したエピソードなのです。
2024年9月10日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊