2024年8月27日放送 - な:中仙道しのぶ安中杉並木


江戸時代初期に整備された五街道の1つである中仙道。

東海道と並んで江戸と京都を結ぶこの街道は、当時多くの人々が往来する重要な交通経路でした。

そして現在の安中市の原市付近の街道沿いに当時700本以上の杉が植えられたのですが、これが札に詠われている『安中杉並木』。

 

排気ガスなどの影響で現在は十数本しか残っていませんが、国の天然記念物に指定されており、また地元の方々の懸命な保護活動が行われています。

 

 

さてこの中仙道ですが、江戸時代当時は江戸から京都に至るまで69カ所の宿場町があり、各宿場町には『本陣』、『脇本陣』、『旅籠(はたご)』と呼ばれる3種類の宿が置かれていました。

ただこのうち『本陣』と『脇本陣』は、大名や幕府の役人が宿泊する格式の高い宿であり、1つの宿場町に1~2軒程度しかありません。ほとんどの宿は一般庶民が泊る『旅籠』だった訳です。

 

 

また中仙道の中で上州に置かれていた宿場町は、新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本の7つですが、ではこの中で一番『旅籠』の数が多い宿場町はどこだったか、皆さんはご存じでしょうか?

 

正解は『板鼻宿』。

 

 

  

今の感覚だと高崎宿が一番多かったのでは?と思ってしまいますが、当時の高崎には15軒程度しか旅籠はなかったと言われています。

高崎は宿場町であるとともに高崎城の城下町。そのため町全体の規律が厳しく、一般庶民はあまり泊りたがらなかったそうです。

 

 

それに対して板鼻宿の旅籠は54軒。これは中仙道の宿場町全体で見てもトップクラスの多さでした。

ではなぜ板鼻にそれ程多くの旅籠があったのかというと、高崎に泊まりたくない旅人たちが隣の板鼻で宿を探すから・・・という理由もあるのですが、一番の要因は、町のすぐ横を流れている碓氷川の存在。

 

 

現在、この碓氷川には鷹巣(たかのす)橋という橋が架かっており、板鼻から安中市の中心部へはここを渡って行くことになります。しかし江戸時代にこの橋は無く、川越人足(かわごしにんそく)と呼ばれる人たちが自分の肩に旅人を乗せたり、または台に乗せたりして水の中を歩いて渡っていました。

 

 

そのため大雨などで川が増水すると渡れず、旅人たちは板鼻で逗留しなければならない為、多くの旅籠が必要だった訳です。

 

 

このように江戸時代は多くの旅人が滞在して活気に溢れていた板鼻宿ですが、その後国道や鉄道が発達していくと共に衰退していきます。

 

しかし今でも板鼻の街並みは宿場町の面影を残しており、また以前このコーナーでも紹介しましたが、江戸時代末期に日本の将来を背負って徳川家に嫁いだ皇女和宮が泊った本陣跡も残されています。

2024年8月27日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊