2024年6月4日放送 - こ:心の燈台 内村鑑三


 

 幕末に高崎藩士の長男として生まれた内村鑑三。

クラーク博士で有名な札幌農学校に入学し、そこで出会ったキリスト教の教えに深い感銘を受け、以後国内の布教活動に専念します。

 

 

また日露戦争の際には、多くの日本国民が戦争を支持していた中、『非戦論』という戦争反対の意志を一貫して主張したことに加え、1908年には『代表的日本人』という本を海外で出版して日本人の精神や文化を世界に紹介した人物として知られています。

 

 

しかし明治時代当時、内村鑑三の名を有名にしたのはこれらの功績ではなく、ちょっとした失敗が発端となったある大事件がきっかけでした。

それは『内村鑑三の不敬事件』と言われる出来事なのですが、皆さんはこの事件をご存じでしょうか?

 

 

鑑三がアメリカ留学から帰国した2年後の1890年。この年に鑑三は、現在の東京大学教養学部にあたる第一高等中学校の教員として採用されます。

そして同じくこの年に頒布されたのが、明治天皇から教育の基本方針として示された『教育勅語』。

 

 

教育勅語  出典 ) 明治神宮 https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php

 

その為当時の国内の各学校では式典が催され、教員と生徒が順番に教育勅語の紙の前に進み出て、書かれている天皇の署名に対し最敬礼をすることが求められたのです。

その為鑑三も他の教員に続いて署名の前に出たのですが、その際『最敬礼』をせずに軽く頭を下げただけで壇上から降りてしまいます。

 

この行動に対して同僚や生徒は、天皇陛下に対して何たる態度かと激しく非難。更にはなんとマスコミまでこれを大きな記事として取り上げたことで社会問題化。現代でいう『大炎上』となってしまったのです。

 

 

繰り返しますが、決して敬礼をしなかった訳ではなく、最敬礼をしなかっただけ。

 

単におじぎの角度が浅かっただけなのですが、当時は天皇に対する行為として許されるものではありませんでした。

また後日学校から連絡があり、別の日に再度仕切り直すのでその時には教育勅語に対して最敬礼するよう要請されたのですが、当日は流感(現在のインフルエンザ)にかかってしまった為、出席の代役を立てたことで非難は更に拡大。

そしてその世間の非難の矛先は鑑三だけでなく、キリスト教全体にまで発展していってしまったのです。

 

 

この事件がきっかけとなり、鑑三は学校を辞職。また鑑三の妻:加寿子(かずこ)は夫のもとへ抗議に来た人達への対応に追われ、その疲労が原因で奉読式のわずか3カ月後に亡くなったと言われています。

 

現代では考えられないような出来事で社会から締め出されてしまった内村鑑三。しかしこの事件が鑑三を一層強くさせ、戦争反対や布教活動に力を注ぐようになるのです。

 

 

2024年6月4日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊