2024年6月18日放送 - し:しのぶ毛の国 二子塚


 

 約1500年前、当時群馬県付近は隣の栃木県と併せて、『毛野国』(けのくに)と呼ばれていました。

この『毛』とは稲などの農作物を指しており、昔から群馬は利根川などが流れていた為、作物を育てるのに適した場所であった訳です。

 

しかし古代のことについてはまだまだ謎の部分が多々あり、そもそもいつから群馬一帯に人が住むようになったのかはよく分かっていません。

しかし、ちょうど上毛かるたが制作されていた頃、群馬県のある場所で当時の考古学の常識を覆す歴史的大発見がなされています。それが『岩宿遺跡』です。

 

 

 

1946年、現在のみどり市笠懸町の赤土の崖から小さな黒曜石の石片が発見されます。これを見つけたのは、当時若干20歳のアマチュア考古学者:相沢忠洋(あいざわただひろ)。

 

そしてその後も相沢はこの場所で調査を続け、1949年には同じ赤土の部分から完全な形をした石器を発見します。これが日本の考古学の根底をひっくり返す大発見となったのです。

 

 

この赤土の部分というのは、旧石器時代の地層。

実は同じ頃、中国では北京原人の化石が見つかったことにより、世界の考古学者たちはこぞって北京原人が住んでいたとされる旧石器時代の研究を行っていました。

 

しかし、当時の日本にはこの時代の遺跡が発見されておらず、また旧石器時代の地層には大量の火山灰で含まれていたことから、当時の日本列島は人間の住める環境ではなかったというのが定説だったのです。

 

しかし相沢が石器を発見した赤土は旧石器時代の地層。ということは、この発見こそがその時代には既に日本に人が住んでいたという紛れもない証拠となる訳です。

 

そのため相沢は専門家の協力を仰ぎ、1949年9月より明治大学の研究員らと本格的な発掘調査を開始。その結果、同じ地層から物の切る時に使用した石の斧や刃物など、当時の人々の生活を裏付ける石器が次々と発見されます。

 

またこの発見がきっかけとなって国内の考古学者たちも旧石器時代の研究や発掘を行うようになり、現在では1万か所を越える旧石器時代の遺跡が日本各地で発見されているのです。

 

 

何よりも素晴らしいのは、相沢自身は独学で考古学を勉強してこの発見に至ったこと。

その為、学歴のない相沢が功績を残したことを妬み、当時は誹謗中傷をする輩もいたと言います。

 

しかし本人はそんな事お構いなし。その後も生涯を通して大好きな考古学に没頭していたといいます。

この大発見は上毛かるたの初版発行から2年後の出来事。

 

もう少し早く見つかっていれば、群馬の誇りとして間違いなく札にも採用されていたでしょうが、相沢にとってそんな事はどうでもよい事なのかもしれません。

 

相沢忠洋
出典) 相沢忠洋記念館 https://www.aizawa-tadahiro.com/about.php

2024年6月18日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊