2024年5月7日放送 - か:関東と信越つなぐ高崎市


北関東の交通の要衝である高崎市。

現在高崎駅にはJR在来線と私鉄の7路線が乗り入れており、更に上越、北陸の2つの新幹線が停車する関東有数のターミナル駅となっています。

更に高速道路も関越自動車道と北関東自動車道に分かれる高崎ジャンクションがあり、関東と信越地方をつなぐ中継都市として重要な役割を担っているのです。

 

 

また更に江戸時代まで遡ると、高崎はこの頃から交通の要衝でした。

中山道の13番目の宿場町:高崎宿として栄え、この高崎から越後方面へと向かう三国街道も分岐していたのです。

 

 

この三国街道は、戦国時代に上杉謙信によって開削された道。

当時、謙信は室町幕府から『関東管領』という役職を授かっており、形式上は関東地方を支配する立場にありました。その為、越後~関東間を上杉軍が頻繁に移動できるよう整備したのが三国街道なのです。

そして江戸時代になると、あることがきっかけとなって三国街道は幕府の重要な道として機能するようになります。その”あること”とは何か、皆さんはご存じでしょうか? 

 

 

正解は、『佐渡金山』の開発。

 

 

出典:写真AC

 

 

江戸幕府の初代将軍である徳川家康は佐渡で金や銀が採れることに早くから着目し、1603年に幕府直轄地として開発を進めます。そしてこれらが幕府の重要な財源となる訳ですが、開発にあたって必要となるのが江戸と佐渡を結ぶ交通。

 

 

当時、江戸から佐渡へ行くには3つのルートがありました。

 

1つ目は現在の福島県白河市を経由して新潟から船に乗るルート、

2つ目は軽井沢にある中仙道の追分宿を北上して、出雲崎から船に乗るルート、

そして3つ目は中仙道の高崎宿から三国街道に入り、新潟の寺泊から船に乗るルートです。

 

 

このうち実際の金銀の輸送に用いられたのは一番平坦で運びやすい道であった2つ目の追分ルート。

しかし三国街道は3つのルートの中で江戸と佐渡を最短距離で結ぶ道だったことから、幕府の役人が江戸と佐渡とを行き来したり、更には江戸の罪人を採掘の労働力として佐渡へ送ったりする為に使われたと言われています。

 

 

とはいえ、3つのルートのうち、追分を通るルートと三国街道を通るルートは高崎を通過します。

あくまで私の想像ですが、江戸時代の高崎宿を通る旅人たちは茶屋で一服しながら、佐渡で採れる金銀の話で盛り上がっていたのかもしれません。

 

 

2024年5月7日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊