群馬の県庁所在地:前橋市。
現在群馬県庁のある場所はかつて前橋城の本丸があった所であり、戦国時代から前橋は城下町として栄えていました。
また幕末から昭和にかけては生糸の集散地として栄え、前橋からヨーロッパに輸出された生糸は『マエバシシルク』と呼ばれ人気を博しました。
その為、上毛かるたでは前橋を『生糸の市(いとのまち)』と表現しているのです。
そして現在の前橋は、当時活躍したある生糸商人がその礎を築いたと言っても過言ではありません。
その人の名は初代前橋市の市長である『下村善太郎』。
前橋に住んでいればこの名を知らない人はいないと思うのですが、皆さんはこの人の功績をご存じでしょうか?
前橋市役所前の下村善太郎像
下村善太郎は1827年に前橋で生まれ、17歳の時に家業であった小間物屋を継ぎます。
しかし、当時は賭博に手を出したことで大きな損失を出してしまい、妻子を連れて一度前橋を離れ、八王子に転居して再起を図ります。
そしてちょうどその頃、横浜港の開港に伴い八王子が生糸取引の中継地となった為、善太郎はここで生糸の商人となったのですが、これが大成功を収めます。
そして1860年、前橋に残した父が死去した為に帰郷すると、ここから前橋発展の為に力を発揮するのです。
前橋の為に善太郎が行ったこと。それは途轍もない額の”寄付”。
まず幕末に計画された前橋城の再建築の為に約400両を寄付すると、明治維新後の1874年には現在の前橋市役所の隣にある桃井小学校の校舎建築の為に当時のお金で1000円を寄付。
更にこの年、前橋本町で大きな火災が発生するのですが、被害にあった方々へ玄米120俵を提供すると共に当時1台800円する消防ポンプを2台寄付。
更に更に、1876年には前橋への群馬県庁誘致運動の先頭に立ち、その官舎の建築費用として必要な3万円のうち1万円を寄付。
そしてその8年後の1884年に行われた臨江閣の建設にあたっては、建築費用の寄付のみならず、建設地として自ら所有していた土地まで提供。
このように現在の前橋市街地のインフラは、善太郎の寄付がもとになっていると言っても過言ではないのです。
その為、1892年に初めて市となった前橋の第1回市議会では初代市長へと選出されます。
行政のトップとして、前橋の為に更にその手腕を発揮・・・となれば良かったのですが、その翌年、東京へと向かう列車の中で急に容体が悪化し、上野に着くや否や病院へと直行。その入院中に帰らぬ人となってしまったのです。
在任期間はたった1年。しかし彼が市長就任前に残したものは計り知れないほど多く、生涯を前橋の為につくした訳です。
臨江閣 (前橋市)
2024年5月28日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊