人口約21万人と、県内で4番目の規模を持つ伊勢崎市。
もともと養蚕が盛んであったこの地域の人達は、市場に出すことが難しい繭、いわゆる”くず繭”を利用して『太織(ふとり)』という織物を作り、自分達の普段着として着ていました。
しかし明治時代になるとその太織の安さや軽さが人々を惹きつけ、徐々に一般庶民の間にカジュアルな着物として浸透していきます。これが『伊勢崎銘仙』の始まりです。
人気を博した銘仙はその後日本各地で生産されるようになるのですが、取り分け伊勢崎、桐生、秩父、足利、八王子は『銘仙の5大産地』と言われていました。
しかし、その中でも伊勢崎は群を抜いており、1930年には5大産地全体での銘仙の生産量が1200万反だったののですが、そのうち456万反は伊勢崎で生産されたものだったのです。
このように大正~昭和にかけての女性のファッションに革命を起こした伊勢崎銘仙ですが、実は革命を起こしたのはファッション業界だけではありません。この頃、広告業界にも旋風を巻き起こしていたのです。
それは『美人ポスター』と『美人絵葉書き』。皆さんはこの2つのことをご存じでしょうか?
1923年、伊勢崎の織物協同組合は伊勢崎銘仙を着た女性をモデルにした『美人ポスター』を日本全国の呉服問屋や小売店などに配布します。
また同時に絵葉書きも制作したのですが、その結果、モデルが着用している同じ柄の銘仙に注文が殺到するという現象が発生したのです。
また実際のモデルとして採用されたのは当時のトップスターの方々。
昭和初期には演劇界の大女優であった水谷八重子さん、また戦後には初代ミス日本に選ばれた山本富士子さん、そして昭和30年代に入ると佐久間良子さん、大空真弓さん、加賀まりこさんなど芸能界で活躍していた錚々たる面々が伊勢崎銘仙を着てポスターを飾ります。
その結果、多い時では年間1万枚のポスターが作成され、日本全国の呉服屋に掲示されたのです。
しかしその後、日本人の和服離れによって銘仙の生産量が減少していくと共に、ポスターや絵葉書の制作数も減っていき、昭和50年代に入った頃には著名人を起用することもなくなっていたと言われています。
その為現在は制作されていませんが、当時のポスターは今でもネットオークションなどに出品されるとマニアの方々が高値で落札していると聞きます。
当時の伊勢崎銘仙の人気を支えた美人ポスターと美人絵葉書き。ご興味ある方は是非オークションサイトをチェックしてみて下さい。
2024年12月3日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊