2024年12月24日放送 - ゆ:ゆかりは古し貫前神社


 富岡市にある『一之宮貫前神社』。

一之宮とは昔の上野国の中で最も格式の高い神社であったことを示しています。 

 

また『ゆかりは古し』と札に詠まれているように、この貫前神社が創建されたのは今から約1500年も前の西暦531年。

そしてそれから千年以上経った1635年に徳川家光が再建し、更にその約60年後の1698年に徳川綱吉が大掛かりな修理をしたものが現在の国指定重要文化財となっています。

 

 

このように長い長い歴史を持つ由緒正しい貫前神社ですが、実は幕末にこの付近一帯が戦禍に巻き込まれたことがあります。

それは1864年に起こった『下仁田戦争』。皆さんはこの出来事をご存じでしょうか?

 

 

 

 

1853年のペリー来航をきっかけに幕府は鎖国を撤廃した訳ですが、開国後も当時の武士たちの意見は開国派と攘夷派の真っ二つに分かれていました。

そんな中、現在の茨城県にある水戸藩の藩士63名が開港したばかりの横浜港の閉鎖を求めて『水戸天狗党』を結成します。

そしてそれに同じ考えを持つ人が次々を仲間に加わり、当時京都にいた徳川慶喜に自分達の意見を進言する為、西へと進軍したのです。

 

 

しかしその動きを知った幕府は京都への通り道となる高崎藩を初め、11藩に対して天狗党の討伐命令を下します。

そして1864年11月16日未明、その高崎藩と天狗党は下仁田で戦闘状態となったのです。

 

実はその高崎藩が天狗党を迎え撃つ為、事前に軍議を行ったのがこの貫前神社でした。

ただこの時、高崎藩と同様に幕府から命令が下っていた七日市藩や小幡(おばた)藩も軍議に参加したのですが、ずっと戦などしていなかった当時の武士達はあまり乗り気ではなく、結局この戦には高崎藩のみが対処をしたと言われています。

 

 

その結果、兵士の数で劣っていた高崎藩は三方向から天狗党の攻撃を受け、最終的には36名の戦死者を出して敗北してしまいます。またこの天狗党は京都に向かう各地で戦争を起こしているのですが、中でもこの下仁田戦争は一番の激戦地として知られているのです。

 

その後天狗党は京都に向けて着実に進軍していったのですが、現在の福井県にある敦賀で幕府軍3万人からの攻撃を受けて降伏。その後353名全員が処刑されます。

しかし幕府に対する世間の不満はますます高まっていき、その4年後の大政奉還によって約270年続いた徳川政権は幕を閉じたのです。

 

今年2024年は、下仁田戦争が起こってちょうど160年。この戦争を受けて、貫前神社は大きな被害を受けなかったのですが、下仁田町の中には当時の弾痕が残っている蔵や高崎藩士戦死の碑などが今も遺されています。

 

2024年12月24日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊