高崎市のシンボルである『高崎白衣大観音』。
これを建設したのは、戦前に井上工業の社長をしていた井上保三郎(やすさぶろう)。
その目的は日露戦争で戦死した陸軍の慰霊供養と共に、高崎を観光都市として発展させたいという想いがあり、1936年に保三郎は私財を投じてこの観音像を建てたのです。
しかし完成からわずか2年後の1938年に保三郎は急逝。
高崎の発展の為、彼にとってはまだまだ道半ばだったのですが、病魔に打ち勝つことはできませんでした。
とはいえその後、彼の夢は継承されていきます。
それを受け継いだのは、長男であった『井上房一郎』。皆さんは彼の名前をご存じでしょうか?
若い頃にパリへ留学していた房一郎は、1930年に帰国して井上工業に入社。そして父;保三郎が亡くなると、その後を継いで社長へと就任します。
またパリでは絵画や彫刻などを学んでいたという事もあって芸術への関心が高く、高崎周辺にある地場企業の家具や織物のデザインについて指導的な役割を果たしていたとも言います。
しかし社長に就任して間もなく起こったのが太平洋戦争。
その戦争に敗北し、多くの日本人が貧困に苦しんだ訳ですが、その状況を少しでも改善する為に房一郎はある活動を始めます。
それは『音楽』活動。
戦時中は、戦意高揚の為に軍事施設などを慰問する『音楽挺身隊(ていしんたい)』という組織がありました。
また他にも群馬県内に疎開していた音楽家もいた為、『戦後のすさんだ心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指そう』と、1945年11月に彼らを集めて演奏を行ったのです。
これが『高崎市民オーケストラ』。そして皆さんご存知の通り、彼らはのちに『群馬交響楽団』となり、地方管弦楽団の草分け的な存在として知れ渡るようになっていくのです。
また1961年、房一郎の尽力により『群馬音楽センター』が建設されると、ここを拠点として幅広い活動を展開。更に1947年に始めた移動音楽教室では、2023年度までに延べ650万人以上の児童や生徒が鑑賞したと言われています。
おそらく、これを聞いているほとんどの方が小学生の頃に群響の演奏を聞いたのではないか?と思うのですが、そもそも楽団が身近に存在している街という事自体、全国的に見ても大変珍しいのです。
父:井上保三郎から息子:房一郎へ。
高崎の発展の為に彼らが遺した観音様や群馬交響楽団は、今もなお、高崎のみならず群馬の発展を支えています。
そして現在、群響は高崎芸術劇場に拠点を移していますが、定期演奏会は年10回きちんと開催されています。最近群響の演奏を聞いていないなという皆さん、是非今度芸術劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか?
2024年10月8日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊