2024年10月22日放送 - へ:平和の使徒 新島襄


上毛かるたには8人の人物札が存在しますが、その中で、福沢諭吉らと共に『明治の六大教育家』の1人と言われているのが新島襄。

 

1843年に安中藩士の長男として生まれたものの、幼い頃から外国に興味を持ち、幕府によって海外渡航が禁止されていたにもかかわらず、21歳の時に函館港に停泊していた外国船に隠れて乗り込んで渡米。

そしてアメリカで大学に入学し、日本人で初めて学士号を取得した人物としても知られています。

 

 

そして、日本に帰国した後の彼の功績として最も有名なのが現在の同志社大学の前身である『同志社英学校』の設立。

これによって日本で初めてキリスト教を基にした教育が開始された訳ですが、設立までには相当な困難と苦労があったことを皆さんはご存じでしょうか?

 

 

実は当初、学校を建設する場所としては神戸か大阪を候補に挙げていました。その為、襄はそれぞれの知事のもとへ出向いて設立の趣旨を説明したのですが、なかなか許可を得ることができません。

したがって、次の候補地として検討されたのが『京都』。当時の京都府知事は襄の持つ新しい考えに対してとても寛容であり、学校の設立を受け入れたのです。

 

 

しかしご存じの通り、京都は由緒正しい神社仏閣が多数存在する場所。

そこにキリスト教の学校を設立するというのは、当時としてはある意味暴挙に近いことでした。

実際、当時京都にいた僧侶や神官たちはキリスト教の学校設立反対を叫んで繰り返し集会を開き、連日京都府庁に押しかけて抗議を行いました。

 

しかし、反対運動が激化すればするほど襄の信念は高まっていきます。当時の日本に信仰の自由という考えは皆無であった為、『自由の精神を若者たちに持ってもらう為ならば、私は倒れても構わない。』と言い放ち、自分の考えを一切退けなかったのです。

 

 

またトラブルは他にもありました。

当時学校を作るにあたって国内にいる宣教師たちも協力したのですが、彼らは自分達と同じ宣教師の養成機関を創るつもりでいました。しかし襄の考えは単にキリスト教だけを学ぶのではなく、その精神に基づいて日本の為に働く人材を育成する学校の設立。

その為、襄と宣教師の間で何度も意見が衝突したと言われています

 

しかし最終的には宣教師たちも納得し、1875年11月26日に晴れて同志社英学校が開校。襄は32歳の若さでその校長に就任したのです。

 

そして月日は経過し、来年2025年は同志社大学開校150周年を迎えます。

それに向けて大学では様々事業が企画されており、また1世紀半経った今でも襄が理想に掲げた通り、日本を背負って立つ多くの人材を輩出しているのです。

 

 

2024年10月22日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊