江戸時代初期に整備された五街道の1つである中仙道。
東海道と共に江戸と京都を結ぶこの街道は江戸時代の交通の大動脈であり、そしてその宿場町だった安中宿と松井田宿の間には当時700本以上の杉が植えられていました。
これが札に詠われている『安中杉並木』。ただ現在は排気ガスなどの影響もあって十数本を残すのみとなっており、地元の方々による懸命な保存活動が行われています。
さて、この中仙道を話題にする際、どうしても外せない幕末の物語があります。
それは『皇女和宮の降嫁』。皆様はご存じでしょうか?
和宮内親王は、1846年に仁孝(にんこう)天皇の第8女として生まれました。
実はこの仁孝天皇には15人の子供がいたのですが、そのうち12人は幼くして亡くなっており、成人したのは和宮を含む3人だけ。その為、小さな頃から大切に育てられてきたのです。
しかし和宮が15歳の時、幕府からある申し出が届きます。それは『和宮内親王を第14代将軍の徳川家茂(いえもち)の嫁に欲しい』という内容。
当時幕府は完全に求心力を失って倒幕の動きが各地で出てきた為、皇族と政略結婚をすることで幕府の威厳を回復させようと試みたのです。
もちろん将軍と皇族が結婚するというのは前代未聞。またこの時和宮には、有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)という婚約者がいた為、朝廷側は何度も断ったのです。
しかし最終的には世の中の混乱を鎮める為ならばと和宮は考え、有栖川様との婚約を解消して将軍との結婚を承諾。1861年10月20日に京都を出発し、中仙道を下って江戸城へと向かったのです。
京都から江戸までの所要日数は24泊25日。またその嫁入り行列の人数は約2万人、長さはなんと50km。ある宿場町では行列の最初から最後までが通り過ぎるのに丸4日かかったと言われる、中仙道始まって以来の大騒ぎとなったのです。
しかしその嫁入りによって混乱が鎮まることは無く、むしろ倒幕運動は激しさを増していきます。更に夫である家茂はもともと病弱だったこともあり、結婚から4年後の1866年に20歳の若さで亡くなってしまうのです。
そして、その2年後には戊辰戦争が勃発。新政府軍は倒幕の為に江戸城へと進軍するのですが、この時、何とか平和裏に解決しようと政府軍へ掛け合ったのが和宮。その結果、江戸城での戦闘は行われずに無血開城という形で城は明け渡され、約260年続いた江戸幕府は終止符を打ったのです。
奇しくも、その江戸城攻撃の総指揮を執っていたのが、かつての和宮の婚約者であった有栖川宮熾仁親王。
2人の間でどんなやり取りがあったのかは不明ですが、今でいえば高校生くらいの少女が日本の将来を背負って中仙道を江戸へと向かい、そして日本の将来の為に江戸を守った訳です。
2023年9月5日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊