明治初期の絹産業発展に大きく貢献した『富岡製糸場』。
現在も1872年の開業当時の建物がそのままの状態で残っており、2014年には『富岡製糸場と絹産業遺産群』の構成資産として世界遺産に登録されました。
この富岡製糸場の設置主任としてプロジェクトを主導したのは、皆様ご存じの渋沢栄一。
またその建設には、絹産業として当時世界をリードしていたフランスの技術者:ポール・ブリュナを雇い、万全の状態で進められました。
そして、忘れてはならないのがこの富岡製糸場で働く工女たちの存在。
繭から生糸を取る作業は器用である女性の方が適しており、彼女達がいなければ富岡製糸場を操業することは不可能でした。
ただ、当初は製糸場の外国人たちの飲んでいた赤ワインが血だという噂が流れ、富岡に行くと生き血を吸われるというデマによって誰も工女になりたがらなかったと言います。しかしそのデマも払拭され、操業から1年後には工女の数は500名以上に達しました。
また富岡製糸場はただ工女達を働かせるだけでなく、習得した技術を自分の故郷に持ち帰らせ、日本各地に建てられた製糸工場で教えるという指導者育成の役割もありました。
その為、その育成プログラムも当時としては日本の最先端を走っていました。
まず製糸場内での生糸の生産には、大まかに分けると3つの工程があります。
1つ目が原料となる繭の選別を行う『繭撰(けんせん)』、2つ目が繭から生糸を作る『繰糸(くりいと)』、そして3つ目が繭から取った糸を大きな枠に巻き取る『揚枠(あげわく)』。
この中で花形だった工程は『繰糸』。一般的に工女は経験を積むと「繭撰」→「揚枠」→「繰糸」の順で昇級され、更にその習得レベルに応じて一等から七等までの階級が存在しました。
その為彼女たちは、一等工女へと昇給して故郷へ帰ることを目標に、日々技術を磨き、熟練度を競ったのです。
そして驚くのはその労働環境。明治初期の工場の職場環境なんて最悪だったのでは?と思うかもしれませんが、実際はその逆。
まず製糸場内には宿舎、食堂、医療施設などがあり、基本的にその寮費や食費、医療費は全て無償。更に作業服も無償。
また1日の労働時間は8時間で、日曜日は休み。更に夏休みと年末年始休暇がそれぞれ10日間ずつあり、夏の蒸し暑い日は日中に4時間の休みが設けられるなどが配慮されていたと言います。
このように従業員の育成制度や労働環境を整備するという概念は、江戸時代の日本にはほとんどなく、富岡製糸場が最初と言われています。そしてここで育った工女たちが各地へと散らばり、日本の製糸産業を世界一へと押し上げていったのです。
2023年9月12日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊