リスナーの皆様の”庭"である県庁所在地:前橋市。
幕末から昭和にかけて生糸の集散地として栄え、前橋からヨーロッパに輸出された生糸は『マエバシシルク』と呼ばれ人気を博していました。
また現在群馬県庁のある場所はかつて前橋城の本丸があった所であり、戦国時代から前橋は城下町として栄えていたのです。
しかし江戸時代、前橋城には何度も何度も危機が訪れます。
その原因は、以前ブラタモリで前橋が紹介された時にも取り上げられた『利根川の浸食』。前橋城のすぐ横には利根川が流れており、度重なる洪水で前橋城一帯を浸食し、何度も城と城下町を苦しめてきました。
そしてこれがきっかけとなって、1767年に当時前橋藩主を務めていた松平朝矩(とものり)は前橋城を放棄して川越城へ移ることとなり、前橋城は廃城となってしまったのです。
しかしそれから長い年月の経った1863年、再び前橋城を築城する案が持ち上がります。
当時日本は開国して間もない時期であり、外国諸国の存在を恐れていました。
その為、万一江戸幕府が外国から攻撃された時、前橋に城を作っておけば利根川を利用して避難できると考えた訳です。
また当時は横浜港が開港したことで、前橋には巨万の富を持つ生糸商人がたくさん存在していました。
その為、彼らから再築の為の資金を献金してもらい、前橋城は廃城からちょうど100年経った1867年に再び築城されたのです。
その”新”前橋城のたたずまいは、もしもの時の江戸城の代わりとして使うことを想定した『超巨大軍事要塞』。
城の外側には土塁やお堀が張り巡らされ、その土塁にはたくさんの砲台が設置されたというネズミ一匹通さない作りになっていました。
まさに長い日本の歴史の中で最後に建築され、また江戸末期当時の日本の最新技術を全て取り入れた超ハイテクな城が幕末の前橋に存在していたのです。
ところが城の完成からわずか4年経った1971年、明治維新により前橋城は真っ先に取り壊されてしまいます。
何も壊さなくてもいいじゃないか!と思うかもしれませんが、廃藩置県によって全国各地にある城は不必要な存在となり、また中でも巨大軍事要塞であった前橋城を残しておくことは、できたばかりの明治政府にとって大変な脅威であった訳です。
とはいえ前橋城の本丸御殿だけは残され、1928年まで群馬県庁舎として使われました。また現在はそれも取り壊され、その跡地には皆さんもご存じの通り、地上153mの超高層ビルである県庁舎が立っています。
今の県庁も立派なのですが、江戸末期に建てられたハイテク技術の城・・・どんな城だったのでしょうか。是非実物を見てみたかった・・・
2023年6月7日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊