1613年に徳川家康が自分の先祖を祀る為に創建した太田市の『大光院』。
当時は江戸幕府と豊臣家の間で起こった大坂の陣や、慶長地震という大規模な震災などの影響により、多くの農民が長い食料不足に苦しんでいました。
その為子供を育てられず、捨て子や子殺しなどが各地で多発していたのですが、それに救いの手を差し伸べたのが大光院の初代住職である『呑龍上人(しょうにん)』。
呑龍上人はその貧しい子供達を弟子として引き取って寺の中で育てました。これが全国へと伝わり、『子育て呑龍様』と呼ばれて親しまれるようになった訳です。
またこの大光院の北側には標高239mの金山があります。
比較的小さな山ですが、1469年に当時難攻不落と言われた金山城ができてからはその名を全国に轟かせました。
しかし1590年に廃城となってしまい歴史の舞台から姿を消すのですが、それから約100年後の1688年、この金山は幕府直轄地となり、再び脚光を浴びることとなります。
その理由は何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は・・・『松茸』。
現在でも金山はアカマツが多数生えていることで知られていますが、当時はこの松林から多くの松茸が採れました。天候などの影響で年によって採取量は異なるものの、多い年だと約3000本。
その為1629年、当時の館林藩主であった榊原忠次は将軍:徳川家光にこの松茸を初めて献上。以後、江戸幕府が崩壊する1867年までの約240年間、1年も休むことなく毎年金山の松茸が将軍へと献上されていたのです。
そして驚くべきはその輸送スピード。
採取された松茸はまず虫喰いの確認や選別作業を行って竹籠に詰められるのですが、朝9時に太田から送り出すと、なんと翌朝5時には江戸城に到着していたと言われています。
松茸は鮮度が命だと言うものの、クルマがある訳ではなく人の力だけで運んでいた時代に、たった20時間という現代の速達並みのスピードで江戸城へと運んでいたのです。
それだけ金山の松茸は将軍から愛され、また献上する側にとっても一大行事であった訳です。
今では金山の環境が変わったことにより松茸は採れなくなってしまったそうです。
しかし毎年秋になると、この金山の松茸が江戸城へ運ばれる様子を再現した『太田松茸道中』が行われています。
ここ数年はコロナ禍で中止となっていましたが、大光院から熊谷の妻沼(めぬま)まで大名行列の
姿で街中を行進し、また2019年には観覧者に松茸のお吸い物が無料配布されたそうです。
これを見るだけでも、当時如何に金山の松茸が将軍に重宝されていたのかが分かります。ご興味ある方は是非一度参加してみて下さい。
2023年5月9日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊