だるまの国内生産シェアの約8割を占める『高崎だるま』。
群馬県内ではもちろん、県外でも選挙で当選した時には候補者が高崎だるまに目を入れることから、全国的な知名度を誇っています。私が住んでいる横浜でも、先日の県議会選挙で当選した方がだるまの横で万歳三唱をしていました。
この高崎で、最初にだるま作りを始めたのは、江戸時代の山県友五郎(やまがたともごろう)という人形職人だと言われています。
ただ始めた理由は諸説あるようで、当時天明の大飢饉で苦しんでいた農民たちを救う為に少林山の和尚が友五郎にだるまの作り方を教えたという説もあれば、当時流行していた天然痘のお守りとして江戸で作られていただるまの技法を高崎に持ち帰ったという説もあります。
従いまして、その始まりについては不明な部分があるのですが、1829年に書かれた「高崎談図抄(だんずしょう)」という文献には、当時「お江戸見たけりゃ高崎田町」と詠われた田町の街中でだるまを売っている商人が版画ではっきりと描かれています。
とはいえ、当時はだるまに塗る赤い顔料がなかなか手に入らなかった為に生産量は多くなかったと言われています。
しかし、それでもだるまの生産は群馬に定着していったのですが、その理由を皆さんはご存じでしょうか?
そこには群馬ならではの2つのポイントがあるのです。
1つ目は群馬が昔から養蚕の盛んな地域だったということ。
蚕は繭を作るまでに4回脱皮をするのですが、その脱皮の半日前くらいから寝ているように全く動かなくなります。
そしてその後、皮を破って出てくるのですが、そのことを睡眠から起きるように見えることから、脱皮のことを「起きる」と表現していました。
その為、当時の養蚕農家の人々は、良質な繭がたくさん採れるようにという願いを、何度転んでも「起きる」だるまに込めて願掛けを行っていたのです。そしてその後、養蚕の守り神として祀られた高崎だるまは縁起物として県内の一般家庭へも広まっていきます。
そして2つ目は、だるまの製造には『乾かす』工程が必要だということ。
かつてだるまの製作は全て手作業であり、当時はだるまの形をした木型に手作業で一枚一枚紙を張って天日乾燥させていました。また形ができあがったら着色して乾燥・・・と工程の1つ1つに乾かす作業が必要なのです。
しかし、それに役立つのが上州名物空っ風。この冬から春先にかけて赤城山から吹き下す乾燥した空っ風がだるまの乾燥に最適だったのです。
まさに高崎だるまは、職人の方々の技はもちろんのこと、上州の風土が生み出した芸術作品であり、今でも年間90万個が出荷されています。
2023年5月2日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊