今からちょうど240年前にあたる1783年。
この年の4月9日から始まった浅間山の噴火活動は1カ月おきに小規模な噴火を繰り返し、7月7日に大爆発を起こします。
別名:クライマックス噴火とよばれるこの爆発は、群馬県内だけで約1500名もの死者を出した日本史上最大の火山被害であり、その7月7日の朝に火口から流れ出た膨大な溶岩によってできたのが、『あ』の札に読まれている嬬恋村の鬼押出し園です。
また、この噴火で一番の被害を受けたのが浅間山から約12kmの距離にある鎌原村。
クライマックス噴火によって発生した土石ながれがこの集落を襲い、当時の村の人口570人のうち477人が一瞬で生き埋めとなってしまったのです。
と、ここまでは以前このコーナーでも紹介しましたし、知っている方も多いと思います。
しかしこの災害後、鎌原村がどのように復興していったのかはあまり知られていない感じがしますが皆さんはご存知でしょうか?
この噴火の後、復興に向けてリーダー的な役割を担ったのが、近隣の大笹集落の名主であった黒岩長左衛門(ちょうざえもん)。
その長左衛門が、復興の手始めとして行ったのは『家族の再編』でした。
生き残った村人93人は皆、家族を亡くしてしまった訳ですが、長左衛門は残った人達だけで『新しい家族』を作ることを提案します。つまり、夫を亡くした妻と妻を亡くした夫を再婚させ、また子を亡くした人には親を亡くした子を養わせるなど、93人全員の家族構成をまとめ直したのです。
もちろんこれには反対もあったと思いますが、『残った者達が互いに血の繋がった一族と思わねばこの大災害は乗り越えられない』という長左衛門の強い決意があったのです。
また更に長左衛門は、ほぼ全ての田畑を失ったこの村の住民達に仕事を与えます。
実はクライマックス噴火の後、鬼押出し溶岩の末端から温泉が湧いたのですが、これを約6km離れた大笹村へと引いて温泉施設を作る大工事を行ったのです。
そしてその作業を行ったのが当時の鎌原の住民たち。
当時の文献には『のべ4063人に対して男には80文、女には72文を支払った』と書かれていますが、この賃金が彼らを飢餓から救った訳です。
強いリーダーシップと経済的な支え、そして住民の一致団結。
これら全てが上手く作用したからこそ、残された93人は誰1人村を離れることなく復興に力を注ぐことができたのです。
残念ながら湧いた温泉は徐々に温度が低下していってしまい、大笹の温泉施設も20年ほどで廃止となってしまいます。
しかし当時彼らが湯を引く為に築いた土塁の跡は今も鎌原の森林の中にひっそりと残っているそうです。
2023年4月4日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊