今年2023年は、江戸幕府が碓氷の関所を設置してちょうど400年になります。
当時幕府は江戸の治安を維持する為に武器の持込みを厳しく取り締まり、また諸国大名の妻を人質として江戸に住まわせ、許可なく国に帰るのを禁止しました。
これらの監視の為に各地に設置されたのが『関所』であり、中でも1623年、交通量の多い中山道に設置した碓氷の関所では往来する人や物の検査を厳しく行ったのです。
ではこの関所ができる前の碓氷峠はどんな場所であったか?というと、飛鳥時代には関西から北関東を抜けて東北地方へと結ぶ東山道が通っており、既に多くの人が行き来していました。
そして同時に、この碓氷峠は『今生の別れの場所』でもあったのです。
実は8世紀頃に作られた日本最古の歌集:万葉集に、碓氷峠に関する歌が2首掲載されています。
『日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は 夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ』
『ひなくもり碓氷の坂を越えしだに 妹(いも)が恋しく忘らえぬかも』
1つ目は夫を見送る妻の歌。「日暮れの碓氷峠を上っていく夫が、はっきりと目立つように袖を振っていたのが見えた」という内容。
また2つ目は妻と別れる夫の歌。「碓氷の坂を越えただけであるが、残してきた妻が恋しくて忘れられない」という内容です。
これらの歌は、当時九州地方を防衛する『防人(さきもり)』に任命された男性と、それを見送る女性が詠んだと言われています。
西暦663年、当時日本は朝鮮へと出兵して唐と新羅(しらぎ)の連合軍と戦ったのですが、あえなく敗北してしまいます。
そしてその勢いで唐が日本へと攻めてくるのではないかという緊張が高まり、九州沿岸に防衛部隊の配置が計画されたのです。
しかし既に朝鮮への出兵で西日本の兵力は大打撃を受けていました。
その為、防人として徴兵の対象となったのは東日本の男であり、当時関東から約2000人が九州へ向かったと言われているのです。
防人の任期は3年。しかし当然そこに行く交通手段は”徒歩”のみであり、また旅費はなんと各自で負担しなければなりませんでした。
当時上野の国から奈良の都に行くだけでも約1カ月。その為、行く道中で獣に襲われる人もいれば、無事に任期を終えたとしてもお金がなくて関東に帰ることができず野垂れ死んでしまう人もいました。
まさにこの碓氷峠での別れは、任期があるとはいえ2度と会えないかもしれない今生の別れだった訳です。
この2首の歌、現在は碓氷峠を上っていった見晴台という場所に歌碑が建てられています。
クルマも電車も新幹線もない古代の人びとがどんな思いで碓氷峠を越えていったのかをよく知ることができる場所です。
2023年4月18日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊