かつて日本の経済を支える産業であった繭と生糸。
富岡製糸場が稼働を開始した明治初期は日本の海外輸出額の半分が生糸であり、その3分の1が群馬県産であったと言われています。また当時、県内の約6割の世帯が養蚕農家であり、数多くの桑畑も存在していました。
この札は、その群馬が誇る蚕糸産業について詠んだ札です。
さてその幕末、この群馬の繭と生糸で一躍時の人となった人物がいます。その人は『中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)』。皆さんはこの名前をご存じでしょうか?
現在の嬬恋村にあたる吾妻郡中居村で生まれた重兵衛は、もともと火薬に関して様々な知識を持っていたそうで、黒船来航で世の中が混乱していた幕末に火薬の調合方法に関する書物を執筆。
そして、それで得たお金を基に生糸の商売に乗り出していきます。
また1859年に横浜港が開港すると、ここが商機とばかりに横浜へと進出。
そして当時最も品質の良かった上州産の生糸をほぼ独占的に取り扱い、莫大な富を得る事に成功します。正確なデータは残っていないようですが、当時日本から輸出された生糸の半分以上は中居屋によるものであったとも言われているのです。
その為、中居屋は横浜一とうわたれ、銅を使った金属製の輝く屋根の店舗は『銅御殿(あかがねごてん)』とも称されました。また店の中庭には小鳥を放ち、また店内には金魚を泳がせた巨大な水槽を置いて買い付けに来た外国の商人を楽しませて商談を有利に進めたと言います。
しかし、他と比べるとあまりに贅沢な店舗だったことから、幕府からはよく思われていなかったようです。
実際に幕府から何度か注意を受けたものの、「外国に向けてみすぼらしい店舗で商売を行うようでは、幕府に迷惑がかかってしまいます」と言って役人を追い返したという逸話も残っています。
そんな事情もあって重兵衛は次第に要注意人物して見られ、結局1860年には営業中止命令を受けてしまいます。そしてその翌年、重兵衛は41歳の若さで突然この世を去ったのです。
病死という説もあれば暗殺説、獄中死説もあって、これまで中居屋重兵衛の名は幕末の歴史にほとんど登場してきませんでした。
また横浜で店舗を営んでいたのはたった2年間と短かったのですが、とはいえ、日本の開国期の生糸貿易を支えた重要人物であり、またビジネスに関しては天才的な嗅覚を持っていて、その才能が横浜を日本最大の貿易都市に成長させたのです。
現在、横浜の中心街である馬車道付近には『中居屋重兵衛店跡』というプレートが置かれています。また重兵衛の墓は故郷:嬬恋村にあり、群馬県の指定史跡となっています。
2023年11月28日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊