館林にある県立つつじが岡公園。
この周辺は昔からツツジが咲く場所として知られており、室町時代の書物には既に「躑躅(つつじ)ヶ崎」という地名が書かれています。
江戸時代になると館林城主によってツツジが手厚く保護されるようになり、地元ではこの一帯は「花山」と呼ばれるようになりました。
さて、このつつじが岡公園内には、樹齢800年と言われるツツジの巨木があります。
このツツジの名前は『勾当内侍(こうとうのないし)遺愛のつつじ』。この『勾当内侍』というのは新田義貞の妻であり、当時義貞が最愛の妻の為に植えた実物のツツジです。
1333年、後醍醐天皇の命によって義貞は鎌倉幕府を滅ぼした訳ですが、その褒美として後醍醐天皇は勾当内侍を嫁に取らせます。この『勾当内侍』というのは正確に言えば天皇の下で仕事をする女性の役職名であり、本名は長橋局(ながはしのつぼね)であったと言われています。
しかし当時は役職名で呼ばれることの方が多く、彼女に関しても勾当内侍という表記で書物に記されていることの方が多いようです。
実は義貞は以前彼女に会った際に一目惚れをしていたのですが、立場の違いからどうすることもできずにいました。
しかし、その話を耳にした後醍醐天皇は気を利かせて仲を取り持ち、2人を夫婦として結ばせたのです。
とはいえその後、義貞と共に後醍醐天皇を支えてきた足利尊氏が謀反を起こします。
この時義貞は、一度は争いに打ち勝って尊氏を九州まで逃亡させたものの、その後に軍を立て直した尊氏に再び攻められ、最終的に1338年、現在の福井県付近で戦死してしまいます。
義貞と勾当内侍の結婚生活はたった4年。
義貞の後、彼女がどんな人生を送ったのかは正確に分かっていません。義貞の知らせを近江国で聞いた勾当内侍は、琵琶湖へ入水自殺をしたという説もあれば、出家して余生を過ごしたとも言われています。
また、一時九州へと逃げた足利尊氏を義貞が追わなかった理由として、京に滞在している勾当内侍との別れを惜しんだ為という説もあります。
その為、義貞を死に追いやった原因は妻の勾当内侍だという研究者もいるのですが、裏を返せば、それだけ義貞は彼女のことを想っていた訳です。
この『勾当内侍遺愛のつつじ』は義貞が彼女を妻として迎えた時に植えたと言われる実物のツツジ。
当初は新田義貞の領地であった太田市付近に植えらえていましたが、江戸時代に現在の場所へ移植されました。
下から見上げるほど大きいツツジなんてあまり見たことがないのですが、義貞の愛がこもったツツジは800年経った今でもたくさんの花を咲かせています。
2023年10月17日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊