赤城山、妙義山とともに上毛三山のひとつに数えられる榛名山。
古代では何度か噴火を繰り返していましたが、6世紀以降は落ち着き、現在の山の形になったといわれています。
また昭和に入るとキャンプを楽しむ人々の姿が増え、まるで村のような賑わいだったことからその様子がこの『の』の札に読まれました。
とはいえ、上毛かるたが制作された1947年頃はマイカーを持っている人などおらず、今のように自分のクルマに荷物を積んでファミリーキャンプを楽しむという方はいませんでした。
どちらかというと当時のキャンプは教育を目的とした野営活動の色が濃かったようです。
実際に当時の文部省は、自然の中での共同生活を積極的に学校教育へ取り入れました。
その流れもあって1946年には現在の『榛名高原学校』の前身である榛名高原体育学校が建てられましたが、皆さんも小中学生の頃、ここでカッターボートを漕いだり、登山をしたりと色々な思い出があるのではないでしょうか?
しかし、群馬には数多くの山が存在する中で、なぜ榛名山で野営活動が盛んになったのか、皆さんはご存じでしょうか?
実はそのヒントとなる記事が、今から97年前にあたる1926年7月14日の上毛新聞に掲載されています。
話はその2年前の1924年。この年、日本は昭和天皇皇后両陛下が御成婚されて国全体が祝賀ムードとなっていたのですが、その記念として、当時皇族の所有地であった榛名湖一帯が県立榛名公園となって開園しました。
その為、この榛名山に登る登山客が増加していったのですが、それに伴ってある問題が発生します。
実は当時の榛名山には登山客用の宿泊施設がほとんどなく、あったのは現在でも経営している老舗旅館の『湖畔亭』1件のみだったのです。
そのため県が協議を行い、学生などの若い登山客がお金をかけなくても休憩・宿泊できる施設を湖畔に作ろうということになります。そしてその手始めとして、5つのテントを1泊2円で貸し出したのです。
ちなみにこのテントは我々の想像する様な物とはちょっと違い、1つが約30平米とかなり大きく、テントの中には簡易ベッドを5つ程度置くことができ、更に毛布も備わっていました。
もちろん学生に限らず、家族連れにも要望があれば貸し出したそうで、当時の上毛新聞の記事の文末は、『このキャンプ生活は今後の榛名名物の1つになるかもしれない』と締めくくられているのです。
おそらく、これがきっかけで榛名のキャンプが盛んになっていったと考えられます。そして時は経過して、平成9年には榛名湖オートキャンプ場もオープン。今でも数多くの観光客で賑わっている訳です。
2023年10月10日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊