月夜野の利根川沿いにある『茂左衛門地蔵尊千日堂』。
江戸時代中期に沼田藩を治めていた真田信利の悪政から住民を救う為に起ち上がった農民『杉木茂左衛門』の供養に建立されたものであり、現在でも多くの参拝客が訪れます。
当時真田信利は自分が贅沢な生活をする為に通常の4~5倍の年貢を農民に納めさせ、生活を苦しめていました。このことを将軍に直訴する為、1681年に1人江戸へ向かい、村の幸せな生活を取り戻そうとしたのが茂左衛門なのです。
真田 信利
実は当時、茂左衛門以外にもこの悪政を正す為に江戸へと向かった農民がいました。しかし幕府の人間に直接訴えても全く聴く耳を持ってもらえずに捕らえられ、打首となっていたのです。
当時は厳しい身分社会。庶民の訴えを政治の上層部に伝えるのはその管轄の奉行所の役割であり、その奉行所を飛び越えて幕府や将軍に直接意見するのは社会体制を揺るがす重大事件となる為、首謀者を厳正に処罰したのです。
その為、江戸に出ても意見を伝えられずに殺される可能性が高いのですが、何とかして沼田の悪政を将軍の耳に届けたい!と考えた茂左衛門は、ちょっと違った戦略を練ります。
それはどんな方法なのか、皆さんはご存知でしょうか?
まず茂左衛門は中仙道の板橋宿にある茶屋に行き、ここに菊の御紋が入った箱に訴状を入れてわざと置いて帰ります。
この菊の御紋とは、当時上野の寛永寺の主であった輪王寺宮(りんのうじのみや)という幕府に非常に近い身分であった方の紋章。その為、茶屋の主人は忘れ物と勘違いし、慌てて寛永寺に届けます。
そして輪王寺宮はその訴状を見て事情を察し、5代将軍・徳川綱吉へ内容を報告。その後幕府が取り調べた結果、沼田藩の悪政の数々が明らかとなり、真田家は全領地没収となった訳です。
これを聴くと、茂左衛門すごい!と思うかもしれません。
ただこの話、明治時代に講談や演劇などの題材として有名になったので、少し脚色されている可能性があります。1人の農民が行ったことですから、実際どのように直訴を成功させたのかは詳しい資料が残っていないのです。
ただこの札には、どんな方法であれ、子供達には人の苦しみを救う正義感を持った人間になってほしいという作者の想いが込められています。
この直訴が成功した後、茂左衛門は月夜野へと戻るのですが、帰郷してすぐに捕らえられ、直訴から5年後の1686年に利根川の河原で磔(はりつけ)によって処刑されてしまいます。
その刑場となったすぐそばが、絵札に描かれている茂左衛門地蔵尊千日堂です。ご興味のある方は是非1度訪れてみて下さい。
2022年8月16日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊