群馬・福島・栃木・新潟の4県にまたがる『尾瀬国立公園』。
東京ドーム約8000個分を誇る本州最大の湿原であり、まさにこの6~7月はミズバショウやニッコウキスゲなどが見頃となっています。
またそれ以外にも尾瀬には多くの珍しい動植物が存在しており、オゼミズギクやオゼマイマイ、オゼイトトンボといった名前に『オゼ』が付くものが植物では18種類、動物では20種類もいるそうです。
この『せ』の札は日本の国立公園の中で一番規制の厳しい『特別保護地区』に指定されている尾瀬を詠んだ札です。
さてこの尾瀬を語る上で是非皆さんに知って頂きたい人達がいます。
その人の名は、『平野長蔵(ちょうぞう)、長英(ちょうえい)、長靖(ちょうせい)』の親子三世代。群馬ではなく福島の方なのですが、皆さんご存知でしょうか?
実はこの方々がいなければ、今の尾瀬は無かったかもしれないのです。
まず1910年頃、平野長蔵が尾瀬の自然に魅せられて尾瀬沼の近くに『長蔵小屋』という行人小屋を建てます。これが尾瀬の開拓のきっかけになったと言われており、長蔵はここで魚の養殖などを行いながら栃木の自宅と行き来する生活を送っていました。
しかし、しばらくするとある良からぬ計画が持ち上がります。
それは、尾瀬のダム化計画。
当時の日本は富国強兵の為に水力発電用のダム建設が喫緊の課題であり、豪雪地帯の尾瀬はその有力候補だったのです。
この計画に長蔵は猛反対。1922年には自分の建てた長蔵小屋に永住してこのダム化計画に単身で抵抗します。
エアコンもない時代、冬には数メートルもの雪が積もる尾瀬に1人で住むのはかなり危険なのですが、自分の身よりも尾瀬を守る事の方が長蔵にとっては大事だったのです。
残念ながら長蔵は1930年にこの世を去ってしまうのですが、この反対運動を受け継いだのが、その息子である平野長英。
長英は多くの文化人や登山家を巻き込んだ反対運動を継続して展開し、その甲斐あってか、最終的にこのダム計画は凍結となった訳です。
しかしこれとは別に、1960年代に入ると群馬から尾瀬を通って福島に抜ける自動車道路の建設も企画されます。これに対する反対運動を展開したのが長蔵の孫にあたる平野長靖。彼らの運動の結果、これも1971年に建設断念となります。
現在、沖縄県を除いて隣接の都道府県と車道が繋がっていないのは群馬と福島の県境のみなのですが、これは平野家の三世代が命をかけて尾瀬の自然を守り抜いた結果なのです。
そして初代:平野長蔵が作った『長蔵小屋』ですが、実は今も尾瀬沼で営業しています。尾瀬を守ることに命をかけた平野三世代の跡。是非この夏に寄ってみてはいかがでしょうか?
2022年7月5日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊