群馬県内のお祭りでお馴染みの八木節。
もともと栃木県足利市にあった宿場町『八木宿』で生まれたのですが、のちに群馬県と栃木県の両方に広がり、現在ではソーラン節や安来節などと共に全国に知れ渡っている民謡です。
また現在コロナ禍で縮小されていますが、8月に開催される桐生八木節祭りは平時であれば60万人以上の来場者数を誇る県内最大級のイベントとなっています。
さて、この八木節を語る上で絶対に外せない人物がいます。
その人の名前は『堀込源太(ほりごめげんた)』。
知っている方もいる人と思いますが、八木節を創作し全国に広めた方です。
明治時代、八木宿で荷馬車を引く仕事をしていた源太は、荷物が空になると、その空になった桶を叩いて歌を歌いながら馬車を引いていました。
その歌声はとても綺麗で、源太が近くを通ると機織りの女性達が一斉に手を休め聞き惚れていたと言われています。
その為、源太は足利近隣の盆踊り大会に呼ばれるようになり、そこでその歌声を披露するのですが、この時歌っていた歌が現在の八木節の原点となった訳です。
そして大正に入ると、源太の歌声は当時の最新機器の出現によって一気に全国に広まっていきます。その最新機器とは何か、皆さんはご存知でしょうか?
正解は・・・『レコード』。
皆さんが知っている円盤型のレコードが日本に現れたのは1903年。もちろん当時は一般庶民が買うものではなく、また歌を録音するよりも政治家が演説を吹き込んで流すというメディアとしての使い方が主流でした。
しかし1914年、経緯はよく分からないのですが、この年に源太はレコードに自分の八木節を録音したのです。
そしてその後第一次大戦が終結すると日本の景気は上向きになり、レコード業界も急速に発展。またラジオ放送でもレコードを流す機会が多くなり、源太の八木節は全国に広まっていった訳です。
またレコードというと皆さんは”LPレコード”を思い浮かべると思いますが、これは片面30分以上録音できるLong Playの略であり、戦後に開発されたものです。
当時、源太が吹き込んだのは片面たった3分しか録音できない”SP(Standard Play)”と呼ばれる初期のレコードでした。
しかし、たった3分とはいえ声を録音できるという大発明に、当時の源太は八木節の発展を見据えたのかもしれません。
残念ながらその後、1923年の関東大震災の影響で源太は活動を制限せざるを得なくなり、1943年にこの世を去ります。しかし、この堀込源太の名前は弟子たちの間で世襲され、現在”六代目”の堀込源太さんが足利を拠点に今も八木節の伝承活動をされています。
私、まだ源太さんの生の唄声を聞いたことがありません。是非いつか聞いてみたいです。
2022年7月19日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊