約1500年前、当時群馬県付近は隣の栃木県と併せて、『毛野国』(けのくに)と呼ばれており、後に群馬県一帯を上毛野(かみつけの)、栃木県一帯を下毛野(しもつけの)と呼ばれるようになったと言われています。
この『毛』とは稲などの農作物のことを指しています。昔から群馬は利根川を中心に水が豊富にあった為、作物を育てるのに適した場所だったのです。
また『二子塚』とは前が四角くて後ろが丸い形をした”前方後円墳”のことを指しています。
当時この二子塚は権力を持った豪族のみが作れるものだったのですが、その二子塚が県内に100以上発見されているという事は、それだけ群馬は権力を持った人が多く、豊かに栄えていたことを示しています。
さてこの『し』の札ですが、絵札には馬の埴輪が描かれていますよね。
先ほどお話した通り群馬は古墳が多い為、埴輪も多数発掘されています。現在日本の国宝には42点の埴輪が登録されているのですが、そのうち19点は群馬県内から発掘されたものです。
しかしこの埴輪、当時なぜ作られていたのか、そしてどのように作られていたのか、皆さんはご存知でしょうか?
それを紐解くカギは『日本書紀』に書かれています。
当時権力を持った豪族が亡くなると、多くの人間を死後の世界へのお供としてお墓へ一緒に生き埋めにするという風習がありました。しかしこれはあまりに残酷であった為、その代わりとして土で作った人馬を墓の中に入れるようになったのが埴輪の始まりと言われています。
当初埴輪は粘土で形を作った後、地面に穴を掘って薪を積んで焼くという方法が取られていました。しかしこれだと温度を一定に保つことができず、上手に焼けない事も多々あったようです。
しかし5世紀中旬、朝鮮半島からある技術が伝わったことにより効率よく埴輪が作れるようになります。
その技術とは、現代でも陶芸職人さん達が使っている”登り窯”。
これによって以前よりも高い温度を一定に保って焼く事ができ、しかも一度に大量の埴輪を作ることができるようになりました。
実際、藤岡や太田市付近には埴輪の生産工場となる登り窯の跡が確認されており、また埴輪の土を分析すると、特に藤岡で作られた埴輪は県西部の各地に供給されていたことが分かっています。当時、群馬では埴輪の”産業革命”が起こっていた訳です。
そういえば2年前、高崎の綿貫観音山古墳の出土品が国宝に指定されて話題となりましたよね。現在、群馬の森にある県立歴史博物館にこれら国宝が展示されています。
もちろん埴輪も展示されていますので、ご興味ある方は是非ご覧になってはいかがでしょうか?
2022年6月21日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊