人口約22万人と、県内では3番目に大きな都市である太田市。
北関東を代表する工業都市としても知られており、大正以降は現在のSUBARUとその前身である中島飛行機の企業城下町として飛躍的な発展を遂げてきました。
この札は、その太田市の金山町にある呑龍様こと、大光院を詠んだ札です。
さて、この”金山”という地名。
これは太田市の中心にある標高239mの小さな山のことを指していますが、実はここ、戦国時代に数多くの戦が繰り広げられた場所であることを皆さんはご存知でしょうか?
この金山の山頂にはかつて由良成繁(ゆらなりしげ)が拠点としていた『金山城』という城が存在していました。
そしてこの城、名だたる戦国武将達が十数回にも渡って攻め込んだのにも関わらず、落城はおろか、城の内部への侵入すら一度も許さなかった日本有数の難攻不落の名城だったのです。
そもそも十数回も攻められたという事自体すごい数字なのですが、なぜ金山城が何度も標的となったのかというと、それは当時の戦国大名の勢力図を見れば一目瞭然。
北は上杉氏、南は北条氏、西は武田氏と名だたる勢力のちょうど境目に位置しているのがこの金山城であったからです。
また山の南には利根川、北には渡良瀬川が流れており、近くには東山道も通っています。まさに交通の要所であったこの地域は、各大名にとって勢力を伸ばしていく為にどうしてもほしい戦略拠点だったのです。
しかしこの城を攻め落とすのは至難の業。その最大の理由は、金山城がその地形を最大限利用した『山城』だったということです。
標高200m余りとはいえ、城を守る側としては敵の全ての動きを上から俯瞰することができ、攻め込んできた敵の兵隊に対して五月雨のように矢を放つことが出来ます。
また当時の関東の城は土塁や柵などで防御する、シンプルな”土造り”が一般的でした。
これは関東一帯にある”関東ローム層”という土壌が堅くなりやすく、また滑りやすい土だった為、これを利用して攻め込んできた敵の機動力を低下させる為でした。
しかし金山では石もたくさん取れたことから、当時の関東の城としては珍しい石垣を作る事で更に強固な防衛を行った訳です。
その金山城も1590年に廃城となり役目を終えるのですが、その独特の構造から財団法人日本城郭協会の『日本100名城』にも選出されています。
現在この金山城跡はハイキングコースとして多くの方々が訪れています。山一面が赤松で覆われており、またたくさんの野鳥やリスも見る事ができるそうです。
このゴールデンウィークに是非家族で散策しながら戦国浪漫に浸ってみてはいかがでしょうか?
2022年5月3日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊