リスナーの皆様の”庭"である前橋市。
幕末から昭和にかけて生糸の集散地として栄え、また前橋からヨーロッパに輸出された生糸は『マエバシシルク』と呼ばれ人気を博していました。
この『け』の札は、その養蚕と生糸の町:前橋を詠んだ札です。
さて私、渡邉は現在横浜市の港南区という所に住んでいるのですが、家からクルマで30分ほどの所に横浜港があり、またその近くに『シルク博物館』という建物があります。
この横浜は日本有数の貿易港ですが、実は開港から約80年間、輸出品目第一位は生糸であり、また一時は輸出する生糸の9割が前橋のものだったという記録が残っています。
横浜は、まさに前橋と共に生糸で発展してきた街といっても過言ではない訳です。
この横浜港が開港したのは1859年。ペリーが開国要求をしてきた後に突貫工事で作った港なので、日本の商人たちは外国人にモノを売るにしても何が欲しいのか全く分からず、また言葉も十分に通じない為、当初はただ色々な品物を並べているだけだったそうです。
しかしある日イギリス人が甲州産の生糸を6俵買っていって徐々にその購入数も増えていった事から、商人たちは『外国人は生糸が好きなのか?』という事に気付き、一斉に生糸の売り込みを始めたと言われています。
そして横浜のシルク博物館の資料には、その開港間もない頃に前橋の生糸がいくらで取引されていたのかの記録も残っています。
まず当時、前橋市内で生糸を取引した際の相場は1斤(=約600グラム)あたり133両。
それに対して横浜で外国の商人相手に前橋の生糸を取引した際の相場は241両。
実に倍近い値段で外国人は買ってくれる訳ですから、当時の前橋の生糸商人たちはこぞって横浜を目指した訳です。
しかし、もちろんこの頃はまだクルマも電車も無い時代。商人たちは大八車に生糸を積み、自分たちの足で群馬~横浜間を行き来していました。
そしてその頃の横浜と言えば、開港の翌年である1860年に日本初のホテルが開業、またその2年後にレストランや写真館がオープン、更にその3年後にはクリーニング店やアイスクリーム屋が営業開始。
これまで日本に無かったものがどんどん横浜に創られていったことを、当時の前橋の商人たちは目の当たりにしていたはず。
こうした新しい文化に触れて前橋へ帰って行き、自分の見たものを多くの人達に伝えていったことが、のちの文明開化に繋がっていったのではと思う訳です。
このシルク博物館は横浜の中心部である大さん橋の近くにあります。是非皆さん、1度横浜に来てマエバシシルクの歴史を辿ってみてはいかがでしょうか?(ついでに私が横浜観光に案内しますので。)
2022年5月31日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊