古くから京都の西陣織と並ぶ絹織物の生産地として有名だった桐生。
そしてその『桐生織』は1977年から国の伝統工芸品に指定されています。
この『き』の札は、その織物の都と言われる桐生市を詠んだ札です。
桐生織の歴史は古く、その昔、絵札にも描かれている白滝姫という人物が桐生に織物の技術を伝えたのが始まりだと言われています。
714年には「あしぎぬ」という絹織物を朝廷に納めたという記述が当時の書物にも残っており、実に1300年以上前には既に桐生で織物が生産されていた事になります。
このようにとても古くからの伝統がある桐生織ですが、この歴史を調べていると、桐生織を世界に羽ばたかせたある人物が必ず出てきます。
その人の名前は『森山芳平(もりやまよしへい)』。皆様、ご存知でしょうか?
森山は1854年に桐生の織物業者の家に生まれます。
伝統工芸というと、先祖代々の技法を守り抜くというイメージが強いですが、森山の考えはちょっと違いました。
どちらかというと伝統を忠実に守るのではなく、織物の品質を高める為なら何でも試してみるという考えだったのです。
例えば森山が23歳の時、当時世界最先端の織機であるアメリカのジャカード機を購入します。
これにより、それまでの日本の方法ではできなかった複雑な模様を桐生織へ積極的に取り込みました。
また1878年には週1回前橋まで歩いて学校に通い、化学の勉強を開始します。
その目的は織物の染色に『化学』を取り入れる為。当時日本には藍染めなどの伝統的な技法があった訳ですが、森山は1886年に桐生織物講習所を設立し、化学染色法を誰でも学べるようにしたのです。
西洋の先進機材や化学的な染色法など、伝統に捕らわれずに良いモノを積極的に取り入れることで桐生織の発展に貢献した森山芳平。
しかしそれ程の人物ならば、上毛かるたに採用されてもよいのでは?と思うのですが、実際には採用されていませんよね。
実は生前、彼の功績を讃える為に弟子たちが桐生駅前に碑を建立しようとしたのですが、森山本人が『そんなことの為にお前たちに織物を教えたのではない』と断固拒否。
弟子たちも何度か説得したのですが、最終的にはその思いを汲み、森山の家の裏庭にひっそりと碑を作ります。そんなこともあってか、森山芳平の名は県内でもそれほど知られていないのです。
しかしその桐生駅から徒歩5分ほどの距離にある桐生織物記念館に行くと彼の功績を詳しく知ることが出来ます。小学生の皆さん、今年の夏休みの自由研究の題材候補として、是非1度行ってみてはいかがでしょうか?
2022年5月17日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊