だるまの国内生産シェアの約8割を占める『高崎だるま』。
この高崎だるまは今から約200年前、大飢饉で苦しむ人々を救う為、少林山の住職であった東獄和尚(とうがくおしょう)によって考案されたと言われています。高崎だるまの眉毛は鶴でヒゲは亀の形・・・というのは群馬県民であればご存知と思いますが、実は他県の方々にはほとんど知られていないようです。
この札は、その高崎だるまの発祥地『少林山』を詠んだ札です。
さて突然ですが、皆さんは第二次大戦前に、あるドイツ人の男性が少林山の中にある『洗心亭』という建物に下宿をしていたという話を御存知でしょうか?
そのドイツ人の名前は、『ブルーノ・タウト』。
彼は当時世界的に有名な建築家だったのですが、日本建築にも強い関心を持っており、その理解を深める為に来日して洗心亭を住処としたのです。
またその滞在中、近隣の村の住民たちとも親交を深めていくのですが、その時ある事件が起こります。母国であるドイツが、日本と戦争中だったソ連と不可侵条約を結んだのです。
それが原因となり、住民達とタウトとの間には少しずつ距離ができてしまいます。
しかしある日、村から戦争へ行って戦死した若者が遺骨となって村へ帰ってきた時、タウトが泣いて出迎えてくれたことで次第に村民達とのわだかまりも溶けていきます。
そしてその後、日本とドイツが同盟を結んだことで再び親交を深めていくのですが、ある日突然タウトが母国へ帰らなければならなくなり、住民達は泣きながら彼を送り出すのです。
・・・という話なのですが、実はこれ、1941年にある新人の映画監督が映画化しようと実話に基づいて書いた脚本です。
その映画のタイトルは『達磨寺のドイツ人』。
そしてこの映画を作ろうとした当時の新人監督というのが・・・後に世界のクロサワと呼ばれることになる日本映画界の巨匠:黒澤明。
この脚本を書いたのは黒澤明が30歳の時。当時はまだ東宝撮影所の助監督だったのですが、この作品で夢であった監督デビューを飾ろうと、実際に少林山へ何度もロケハンに来たそうです。
しかし、時はちょうど太平洋戦争の始まった年。
当時、映画のフィルムは軍事用として使う為、民間でのフィルム使用は厳しく制限されてしまい、残念ながらこの企画が映画化されることはありませんでした。
しかし、今でも当時書かれた脚本はしっかりと残っているのだそうです。
ブルーノ・タウトも、そして黒澤明も愛した少林山達磨寺。
そしてタウトが暮らした洗心亭は現在群馬県の指定文化財となっており、当時の状態のまま、今も残されています。
2022年4月26日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊