この札は、群馬県のど真ん中を流れる一級河川『利根川』を詠んだ札です。
群馬と新潟の県境にある大水上山を水源として南に流れ、伊勢崎市付近から流路を東に変えて千葉県の銚子市で太平洋にそそぐ全長322kmの川です。
その長さは国内では信濃川に次いで2番目に長く、『坂東太郎』というニックネームもついていることは皆さんご存知かと思います。
さてこの『坂東太郎』というニックネーム、なぜ利根川にこの名前が付いたのかご存知でしょうか?
そもそもこの『坂東』とは利根川が流れる”関東地方”を意味しており、また『太郎』は”長男”を表しています。
「長男?ということは次男と三男もいるの?」と考える方もいらっしゃると思いますが、いるのです!
実は昔から、利根川の『坂東太郎』の他に、九州を流れる筑後川を『筑紫次郎』、四国を流れる吉野川を『四国三郎』と呼んでいました。
この3つの川の共通点は、大雨が降るたびに氾濫して川沿いに住む人々を散々苦しめてきたということ。いわゆる「日本三大暴れ川」に太郎、次郎、三郎と三兄弟のあだ名を付けたのです。
利根川も今はダムなどが建設された事である程度水害は抑えられていますが、昔は頻繁に氾濫し、県内でも多くの被害をもたらしていた訳です。
また先程話したように、今の利根川は千葉県の銚子市から太平洋にそそいでいますが、大昔の利根川は流路が全く違っていて、上州から江戸を通って東京湾に注いでいたことを皆さんはご存知でしょうか?
実は江戸幕府が始まった辺りから利根川の流路は大きく変わったのです。
この流路を変えた人物こそが、1590年代、当時江戸に来たばかりの徳川家康。
家康が来るまでの江戸はいわゆる『湿地帯』であり、また利根川の度重なる氾濫も起こっていて多くの人が住めるような状況にはありませんでした。
そこで家康は1594年に、現在の埼玉県羽生市付近に堤防を築くという当時としては超大規模な工事を行って主流を東方面に流れるように変え、江戸への水流をコントロールすることで江戸の新田開発や城の建築に力を入れられるようにしました。
またこれによって江戸の北側に利根川が流れる事になり、東北の勢力:伊達政宗の江戸への進軍を牽制する役割をもたらしたとも言われています。
しかし、なぜ湿地帯で人も住めないような所に家康は幕府を開いたのか・・・?
これは歴史の研究者の中でも様々な意見があってよく分かっていないようです。
とはいえ、今でも利根川は首都圏の水道水をはじめ発電や農業用水など、多くの人の生活や産業を支える大切な川となっています。