この札は群馬県の県庁所在地である『前橋市』を詠んだ札です。
安中生まれ安中育ち、現在は横浜在住と1度も前橋に住んだことのない私が前橋のリスナーの方々に前橋のことを語るのは大変おこがましいのですが(笑)、しかし一番お話ししたかった話題の1つでもあります。
なぜならば『前橋』と私の今住む『横浜』は、まさに生糸で繋がれた切っても切り離せないふか~い関係があるからです。
そもそもなぜ上毛かるたでは前橋を『生糸の市(いとのまち)』と表現しているのか、皆さんはご存知でしょうか?
これを説明するには、ペリーが黒船に乗って日本にやってきた1850年代に遡る必要があります。
当時、開国したことによって日本は海外との取引が活発化していくのですが、国内にはまだ輸出できるような品目が少なく、外貨獲得のほとんどを「生糸」に頼っていました。
その「生糸」の一大生産地が群馬県であり、また当時群馬の生糸は前橋に集積されて輸出されていた為、「マエバシシルク」と呼ばれ外国の商人の間で大変な人気を誇っていたのです。
そして、そのマエバシシルクの輸出に使用されていたのが当時開港間もない『横浜港』。
前橋に集積されたシルクを横浜まで運んで輸出していたのですが、もちろん当時はクルマも鉄道もなく、群馬から横浜までは利根川を使って舟で運ぶのがメインでした。
しかし日本の国益を担うマエバシシルク。これを効率的に運ぶ為に群馬~横浜間を鉄道で結ぼうという計画が持ち上がります。
そのため明治5年に新橋~横浜間が、更に明治17年には前橋~上野間に鉄道が開通します。この前橋~上野間の鉄道がのちに『高崎線』と呼ばれることになるのです。
高崎線は前橋の生糸を横浜に運ぶ為に作られた、日本の鉄道の中でも一番古い路線なのです。
また明治7年、横浜に『第二国立銀行』が開設されるのですが、生糸の取引の為に高崎、前橋にも支店が設けられます。この『第二国立銀行』が現在の『横浜銀行』です。
現在も群馬県内には前橋、高崎、桐生の3都市に横浜銀行の支店があります。なぜ横浜の銀行の支店が群馬に?と思う方もいるかもしれませんが、これはシルクが深く関係していたのです。
現代で「いとのまち」と言えば富岡製糸場のある富岡市や、桐生織のある桐生市を思い浮かべる方が多く、前橋市内を見渡してもその名残は少なくなってしまったかもしれません。
しかし広瀬川沿いなどにはまだ少し、当時の面影のある建物が残っている?と聞きます。
ゴールデンウィークも残りわずかですが、この機会に是非散策に出かけてみてはいかがでしょうか。