藤岡市の鬼石町にある『桜山公園の冬桜』と『三波石峡』。
また、この三波石峡には白い筋の通っている緑色の岩が数多く存在しているのですが、これがいわゆる『三波石』。
この「さ」の札は、群馬が誇るこれら2つの名勝及び天然記念物を詠んだ札です。
三波石はその美しさから日本庭園などの庭石として古くから高値で取引されており、1600年代初期に書かれた史料にはすでに『三波石』という記述が残されています。
また江戸時代中期になると三波石峡にたくさんの観光客が訪れていたことも記録に残っており、当時の地元の人々は観光客の案内や宿の提供によっても収入を得ていました。
現代では家に庭石を置く人は少なくなってしまいましたが、今でも全国各地の庭園には三波石が使われており、有名なところでは伊勢神宮の内宮にある39段の石段にも使われています。
また話は変わって1908年。現在桜山公園がある一帯の村長であった飯塚志賀(いいづかしが)が日露戦争の勝利を記念して、村民と一緒になって山頂付近に桜とカエデを植樹します。
するとその一部の桜が秋~冬にかけて花を咲かせ、人々を驚かせます。これが全国的にも珍しい『冬桜』です。
今でも開花の時期になると紅葉と桜のコラボレーションを楽しむ観光客が数多く訪れ、約7000本の冬桜が山一帯に咲き誇っています。
さて、なぜこの『三波石と共に名高い冬桜』が上毛かるたの札として選ばれたのでしょうか?
もちろん群馬が誇る名勝であるからなのですが、そこには『日本人の美意識』というものを後世になっても忘れないで欲しいというメッセージも込められているのではないかと私個人としては思っています。
古くから日本人は、咲いてもすぐに散ってしまう桜の無常観や、日本庭園に表現される「わびさび」などに美しさを見出してきました。
この感覚が日本人独特のものであるということは言うまでもないのですが、上毛かるたが制作された1947年当時日本はGHQの管理下にあり、そんな中でも日本人が持つ独特の感性は無くさないで欲しいという気持が制作者の中にはあったのではないか?と考えるわけです。
三波石峡も1968年には上流に下久保ダムが完成したことで川の水が枯渇し、一時はその景観が失われそうになりました。
また桜山公園も1973年に大規模な火災が発生して約1000本の冬桜が消失してしまったのですが、どちらも地元の方々のチカラで復元・整備がなされ現在に至ります。
『日本人が持つ美意識』。是非皆さんも一度思い返してみてはいかがでしょうか。