吾妻川中流の約2.5kmに渡る渓谷:吾妻峡。
大昔に火山が噴きだした溶岩が長い年月をかけて浸食され、現在の渓谷になったと考えられています。この札は新緑や紅葉など1年を通じて景観を楽しむ事ができる、その吾妻峡を詠んだ札です。
またこの『や』の札、今から74年前に上毛かるたを制作した生みの親、浦野匡彦(うらのまさひこ)先生にとって大変思い入れのあった札です。なぜなら浦野先生は吾妻峡のある長野原町の出身であり、自分の故郷を詠んだ札であるからです。
さて、この札に登場する『耶馬渓』。これは日本三大奇勝の1つでもある大分県の渓谷ですが、そもそもなぜ上毛かるたでは群馬から遠い場所にある耶馬渓と吾妻峡を比べているのか、皆さんはご存知でしょうか?
これは明治・大正時代の地理学者である愛知県出身の志賀 重昂(しが しげたか)という人物が、1912年、国民新聞の紙面で『九州の耶馬渓は天下一の絶景と称えられているが、上州吾妻川の渓谷は耶馬渓以上である』と吾妻峡を絶賛したことに由来しています。
この志賀重昂という名前、どれだけの方が知っているかは分かりませんが、実は地理学の世界では超偉大な人物として知られています。
19世紀後半に南半球を周遊しての地理の研究をしていたのですが、外国に行けば行くほど日本の風土は海外よりずっと素晴らしいという事を実感し、1894年に『日本風景論』という本を発行して、日本の景観や古来の物はきちんと残していくべきだと主張したのです。
今でこそ日本の四季折々の景観は世界に自慢できるものだと多くの方が感じていると思いますが、当時は鹿鳴館などに代表される文明開化の時代。欧米の文化だけがもてはやされ、『日本はアジアである事を捨て、ヨーロッパ諸国の一員なるべき』と思想が重視されていたのです。
そんな中、その思想に反して日本の風土の良さを主張するのは当時かなり勇気のいることだったのですが、のちにこの本がベストセラーとなります。
もちろん、上毛かるたを制作した浦野先生も『日本風景論』の事は良く知っていたはず。
だからこそ、その志賀重昂が吾妻峡を絶賛してくれた事を大変嬉しく思い、その言葉を借りて自分の故郷を札に表現することで、同時に日本の景観を守っていく事の大切さを後世に伝えようと札に込めたのです。
とはいえそれから70年以上経ち、八ッ場ダムの建設によって吾妻峡の上流部分が無くなってしまいました。
人間が生活する上で必要なことではあったのですが、日本が誇る景観はずっと守っていきたいですね。
2021年11月30日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊