2025年2月18日放送 - わ:和算の大家関孝和


 江戸時代、幕府に仕えて和算の研究を行った関孝和。

この『和算』とは飛鳥時代に中国から伝わった算術ですが、鎖国で海外との交流が無くなった後は国内で独自に発展していきました。

そしてその歴史の中で、群を抜いて和算の発展に貢献したと言われているのが天才数学家の関孝和。

ちなみに本当の名前は関孝和(たかかず)ですが、昔は尊敬に値する人物の名前は音読みにする習慣があり、上毛かるたでも関”こうわ”と詠んでいます。

 

 

さてその関孝和は1708年にこの世を去るのですが、その後も和算は大きく発展していきます。

実際、それから100年以上経った江戸末期に生まれた船津伝次平も関孝和の和算を学んだと言われているのです。

 

 

ではなぜそれほど長く和算が発展していったのかと言うと、当時多くの芸能の分野で行われていた『家元制度』。

江戸時代、茶道や華道、歌舞伎などのような伝統芸能は、1人の師匠を頂点としてそれをピラミッド状に継承していく家元制度が取られていました。

そして和算の分野においても関孝和を始まりとした”関流(せきりゅう)”という家元制度が構築され、弟子がまたその弟子へという形で和算のスキルを継承していったのです。

 

 

とはいえ、当時はこの関流以外にも田中流、三池流、最上(さいじょう)流といった様々な和算の流派が全国各地に乱立していきます。

しかし、その中で最も大きな組織を誇ったのが関流。

中でも関孝和から数えて4代目の弟子にあたる山路主住(やまじぬしずみ)という人物は、これまでの関流で研究されてきた和算の方法を総まとめした免許制度を確立。

決められたカリキュラムによって技術の習得が認められると、家元から『免許皆伝』を与えられるという制度であり、この免許が欲しい為に多くの習得希望者が関流に入門します。

また関流の拠点は江戸にあったことから、全国から参勤交代でやってきた多くの侍たちがs関流の門を叩き、地元へと帰っていく事で全国的に普及していったのです。

 

 

しかし明治になると、日本政府は小学校での算数教育に西欧の算数を採用する方針が打ち出され、和算は一気に衰退していきます。

ただ唯一存続したのは『そろばん』。当時はパソコンも電卓も無く、計算道具と言えばそろばんしかなかったので、引き続き庶民の間で使われることになりました。

 

 

現在、関孝和の故郷である藤岡市では文化の日に毎年『関孝和先生顕彰 全日本珠算競技大会』が開催されています。

そろばんを習う子供達も減ってきているようですが、現在ではこのそろばんのみが江戸の和算文化の名残なのです。

 

 

2025年2月18

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

  

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊