吾妻川中流にある渓谷:吾妻峡。
大昔に火山から噴きだした溶岩が長い年月をかけて浸食され、現在の深い渓谷になったと考えられています。
また大正時代、当時日本を代表する地理学者であった志賀重昂(しがしげたか)が国民新聞の紙面において、『九州の耶馬渓は天下一の絶景と称えられているが、上州吾妻川の渓谷は耶馬渓以上である』と吾妻峡を大絶賛します。この言葉が『や』の読み札の由来となっている訳です。
しかしこの吾妻峡、現在でも絶景スポットとして有名ですが、江戸時代の頃は交通の難所としても有名でした。
現在の自治体区分で言うと吾妻郡には中之条町、長野原町、嬬恋村、草津町、高山村、東吾妻町の6つの市町村がありますが、前橋方面から嬬恋村や草津町、長野原町など吾妻の西の地域に行く為には吾妻峡やその周りの峠を越えなければなりません。
その為、古くから吾妻の人の往来を分断していたのです。
そして江戸時代も後期になると草津温泉への湯治客や商人の往来が盛んになり、吾妻の東西をつなぐ道を求める声は更に大きくなるのですが、この地元住民の声に応える為に立ち上がった人がいます。
その人の名は『野口茂四郎(もしろう)』。
皆さんはこの人の名前をご存じでしょうか?
野口茂四郎は1856年に長野原町で生まれ、福沢諭吉のいる慶應義塾で学んだあと28歳の若さで群馬県の県議会議員となり、37歳の頃には副議長も務めました。
そしてその間、吾妻の東西をつなぐ道の必要性を訴え続け、ついにその結果、1893年には吾妻峡の近くにある道陸神峠(どうろくじんとうげ)を切り開き、現在の国道145号線にあたる道路を完成させたのです。
そしてこの道は茂四郎の功績を称える為に地元の人から”野口新道”と呼ばれたのですが、その理由は、県議会で訴え続けたからだけではありません。
実は当初この道路は県の補助金を受けて建設していたのですが、峠を切り開く作業は想像以上の難工事であり、補助金は早い段階で底をついてしまいました。
すると茂四郎は迷うことなく自分の家財を投げ売って費用を確保し、完成へとこぎつけたのです。
今でも地元の方々は茂四郎に対して敬意を抱いており、国道145号線を通ると吾妻峡付近に『茂四郎トンネル』があります。
また地元の長野原町にある長野原かるたの”く”の札にも『群馬の政治家 野口茂四郎』と詠まれているのです。
冒頭で志賀重昴が国民新聞で吾妻峡を絶賛したと言いましたが、これはこの道路ができた20年後のこと。
茂四郎がこの道を作っていなかったら、志賀重昴も吾妻を訪れることはなく、また『耶馬渓しのぐ吾妻峡』のフレーズも生まれなかったのかもしれません。
2024年12月17日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊