群馬と新潟の県境に位置し、日本百名山の1つとしても有名な谷川岳。
冬はスキー、夏は登山と1年を通じてレジャーを楽しむことができ、またその南には数々の温泉街も集中しています。
とはいえ明治・大正の頃は交通が不便だった為、この地域の知名度はそれほど高くありませんでした。しかし1928年に水上駅が開業すると多くの観光客が訪れるようになり、『東京の奥座敷』と言われるほどに発展していったのです。
そんな中、1936年に日本を代表するある文豪がこの水上を訪れています。それはまだ駆け出しの小説家だった27歳の『太宰治』。
しかしここを訪れた理由は観光ではなく、実はこの時、太宰は人生のどん底を味わっていました。
その前の年、太宰は虫垂炎の手術を受けたのですが、その際にパビナールという鎮痛剤を使用したことが原因で薬物中毒を患っていました。その為、それを治療する為に谷川温泉へ1カ月ほど滞在していたのです。
当時の滞在先から友達に宛てた手紙によると、その治療生活はかなりつらかったようなのですが、更にそこへ追い打ちをかけるような悲しい知らせが旅館に届きます。
それは芥川賞の落選通知。
当時、芥川賞はまだ創設されたばかりの文学賞だったのですが、芥川龍之介を心から尊敬していた太宰にとってはどうしても欲しかった賞でした。また、その賞金で抱えていた借金も返済しようと考えていた為、落選のショックは怒りに代わり、滞在先から賞の選考委員の川端康成に攻撃的な手紙を送ったことも分かっています。
そしてその翌年の3月、太宰は当時の内縁の妻と一緒に再度谷川温泉を訪れるのですが、その際に取った行動というのが、2人での心中未遂。
このように当時の太宰には連続して不幸が訪れていたのですが、その後は結婚して子供も生まれます。また『富嶽百景』や『走れメロス』など今や誰もが知っている名作を次々と創作し、更にはこの谷川岳での心中未遂のことを小説の題材とし、『姥捨(うばすて)』というタイトルで発表もしているのです。
少し大袈裟かもしれませんが、谷川温泉は太宰のあらゆる不幸を吐き出させて人生を好転させた場所とも言えます。
とはいえその安定した生活も長くは続かず、その10年後の1948年、太宰は当時の愛人と玉川上水に飛び込んで入水自殺し、この世を去ります。
彼の人生は理解に苦しむところも多いのですが、もう少し長く生きていたら、もっと多くの名作を世に送り出していたのではと思うのです。
現在、谷川温泉にある旅館『たにがわ』は太宰治ゆかりの宿として、館内に太宰の文学資料室が設置されています。ご興味のある方は是非訪れてみて下さい。
2024年11月19日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊