吾妻川中流の約2.5kmに渡る渓谷:吾妻峡。
大昔に火山から噴きだした溶岩が長い年月をかけて浸食され、現在の深い渓谷になったと考えられています。
また大正時代、当時日本を代表する地理学者であった志賀重昂(しがしげたか)がこの地を訪れ、国民新聞の紙面において『九州の耶馬渓は天下一の絶景と称えられているが、上州吾妻川の渓谷は耶馬渓以上である』と吾妻峡を大絶賛します。この言葉が上毛かるたの『や』の読み札の由来となっている訳です。
現在でもこの吾妻峡では新緑や紅葉など1年を通じて景観を楽しむ事ができることから、数多くの観光客が訪れています。
しかしこの吾妻川。その景観こそ素晴らしいものの、かつては『死の川』と呼ばれていたことを皆さんはご存じでしょうか?
その理由は、当時の吾妻川に流れていた水の水質にあります。
ご存じの通り、我々が普段の生活の中で飲んでいる水はpH7.0前後の中性であり、全世界を見渡してもほとんどの河川に流れている水はほぼ中性です。しかしこの吾妻川にはかつて強酸性の水が流れていました。
その原因は川の上流に位置する草津白根山の存在。この白根山は今でも活動を続けている活火山であり、ここから硫黄成分が溶け出して吾妻川に流れ込むことにより強い酸性となるのです。
その為、かつては魚などの生き物が生息できないのはもちろん、農作物の栽培にも適しておらず、更には鉄やコンクリートなどを使った橋などはすぐにボロボロになってしまい建てることができませんでした。
そしてその状況は昭和に入ってからも同じであり、吾妻川沿いに計画したあの八ッ場ダムも一度は建設断念となった経緯があります。
しかしこのままだと吾妻川流域の経済発展は望めないことから、1965年に日本政府は世界初となる大事業の実施を決定します。それは強酸性である吾妻川の中和計画。
草津中和工場
まず草津に中和工場が建設され、そこで川に石灰の粉を投入します。
そうすることで酸性の水は石灰と中和反応を起こしながら流れていき、反応によってできた物質を下流にある品木ダムで取り除き、中性となった水を都市部へと流すという事業を開始したのです。
これによって中性化した吾妻川には魚などの生物が棲むようになり、その下流に住んでいる我々もその河川の水の恵みを受けて生活しています。
現在も吾妻川の最上流域は強酸性の水が流れており、中和作業を行わないと下流に悪影響を及ぼしてしまいます。
24時間365日、今でも草津の中和工場と品木ダムは吾妻川の水質を守っているのです。
2024年1月23日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊