上毛かるたの初版が発行された1947年。当時県民からの公募によって札に採用する題材を決めたのは以前このコーナーでお話しましたが、この『ち』と来週紹介する『つ』の札については公募ではなく、上毛かるた制作の中心人物であった浦野匡彦先生の想いを直接表現した札だと言われています。
浦野先生は戦後、戦争で生じた多くの犠牲者の方々を援護する目的で作られた『恩賜財団同胞援護会(おんしざいだんどうほうえんごかい)』の群馬支部の責任者をしていました。その際、スローガンとして『智ある者は智を、力ある者は力を、財ある者は財を!』という言葉を掲げ、生きのびた人達がそれぞれ持っているものを出し合って助け合おうと呼びかけたのです。
まさにこのスローガンそのものがこの『ち』の札の詠みに込められており、この想いが県全体に広がるようにと、当時の群馬の人口を表す数字を使い『力合わせる160万』としたのです。またその後人口が10万ずつ増えるたびに170万、180万、190万と読みを変え、現在は『力合わせる200万』となっています。
さて、その浦野先生が責任者をしていた同胞援護会の活動ですが、この活動の功績の中に上毛かるた制作の原点となったものがあります。それは何か、皆さんはご存じでしょうか?
正解は・・・『はらから飴』の生産。
当時、戦時中から戦後にかけて日本は食糧難の時代にありましたが、その食糧事情を支えていたのが『さつま芋』でした。
終戦の1945年当時、国内のさつま芋の作付面積は現在の約10倍にあたる40万haもあり、また当時は地上に伸びた茎の部分にあたる『芋づる』も家畜の餌や畑の肥料として使われ、毎日の生活になくてはならない食材だったのです。
しかし大量生産されていたが為に、農家では芋が余ってしまい、軒下に山積みされたままとなっているものもありました。
その為、高崎郊外の農家付近を歩いていた浦野先生は、その山積みになって腐りかけているさつま芋を見て、『これを何かに生かせないか?』と考えたのです。これが『はらから飴』製造のきっかけとなります。
農家から提供してもらった余ったさつま芋を飴にして売ることで、当時糖分の摂取が不足していた県民の栄養補給となり、予想以上の売上がありました。
またその収益は農家や工場の方々に彼らの生活資金として還元され、更にその一部はのちに発行する上毛かるたの資金源にもなった訳です。
そもそも『はらから』とは『仲間』を意味する言葉。1つの飴によって仲間として繋がり、力を合わせた群馬県民は苦しい戦後を共に乗り越えていったのです。
来週、78回目の終戦記念日がやってきます。
2023年8月8日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊