古くから織物の一大産地として栄えてきた伊勢崎市。
江戸時代、市内の養蚕農家では市場に出せなかった繭、いわゆるくず糸を利用して『太織(ふとり)』という質素な織物を作り、普段着として着ていたのですが、それが後に伊勢崎の伝統工芸である『伊勢崎銘仙』に発展していきます。
他にも銘仙の産地はいくつもあったのですが、伊勢崎の生産量は群を抜いており、1930年には国内の銘仙生産量の40%が伊勢崎産だったと言われています。
さて、その伊勢崎駅から南に500mほど行くと、小学校の隣に古めかしい塔のようなものが建っているのを皆さんはご存じでしょうか?
この塔の名称は『旧時報鐘楼』。1916年に建設された県内最古の鉄筋コンクリート構造の建物です。その名の通り、建設後は伊勢崎の人達に時を知らせる為、朝6時と正午、そして夕方6時の3回、最上部に吊るされた鐘を毎日鳴らしていました。
現代生活において時計は至る所にありますが、明治時代の日本人にとってはまだまだ高価な物。
その為、当時の人々は時間に無頓着、というよりもあまり気にする必要もなかったのです。
また当時はお寺の住職が鐘をついて朝と夕方を知らせていましたが、忙しい日はやらないことも多く、結婚式にも当事者が到着せず、数時間遅れるなんてことが普通に起こっていました。
しかし海外との取引や商売が活発になっていくと、嫌でも時間を気にしながら仕事をしなければいけません。
その為、当時伊勢崎の町長だった石川泰三(たいぞう)は、町民たちに時間遵守を呼びかけたのですが、今まで気にしてこなかった分、人々の意識はそう簡単に変わりませんでした。
そのため石川は、横浜港で薬の商売をしていた伊勢崎出身の小林桂助に相談。
当時小林は、まだあまり知られていなかったハッカに目を付けてヨーロッパ諸国と貿易を行い、莫大な富を得ていました。
そのため欧米では「小林といえばハッカ」という程有名だったのですが、この小林が伊勢崎に多額の寄付をしてくれたことにより、時報鐘楼が建設されたのです。
1916年に完成した鐘楼は、1937年までの 22年間、伊勢崎の街に時を知らせ続けました。
その後、時報は警察署のサイレンへと代わった為にその役目を終えたのですが、鐘楼は街のランドマークとして大切に保存されてきたのです。
しかし1943年、最上部の鐘は太平洋戦争の軍事兵器生産の材料とする為に撤去されてしまいます。
更に建物自体も空襲によって塔の一部分が焼け落ち、西側表面には熱で焼かれた跡が今も残っています。
戦争を後世の人たちに伝える為、建設から100年以上が経った現在でも町の中心部にそびえ立っているのです。
2023年12月19日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊