上毛かるたが制作された1947年は、戦争の影響により深刻な電力不足に陥っていたと共に、戦後最大の台風とも言われた『カスリーン台風』が群馬県全域を襲い、多くの家屋や田畑が浸水しました。
その為当時は、県内に多くのダムを建設することで洪水対策や水力発電を行う事が急務となっていました。
今となっては『理想の電化』と言われてもピンと来ないと思いますが、かるた制作当時の人々にとってみれば、電気の安定供給というのは憧れの生活であった訳です。
またこの絵札に描かれているのは、藤岡市にある下久保ダムの建設当時の風景。
初版の上毛かるたの『り』の絵札には、現在の渋川市にある佐久発電所が描かれていましたが、1968年、絵札の作画を担当した画家の小見辰男(おみたつお)先生が完成間近の下久保ダムの建設現場を訪れた際、日本が戦争から復活した事を強く感じ、全絵札の描き換えを決意したと言われています。
しかしその下久保ダムの建設が影響して、県内のある名所が一時廃滅しそうになってしまったことがあります。
上毛かるたにも詠われている場所なのですが、皆さんはご存知でしょうか?
その名所とは下久保ダムの下流にあり、『さ:三波石と共に名高い冬桜』で知られている三波石峡。
ご存知の通り三波石峡は美しい岩のある清流であり、特に渓谷内に点在している『四十八石(しじゅうはちせき)』という珍しい岩々には江戸時代から観光客が訪れていたと言われています。
また古くからこの地域には『洪水は三波石の化粧水』という言葉があります。
これは上流から運ばれてくる土砂によって三波石が磨かれる為、その景観の美しさを保つ為には少々の洪水は仕方ないということを表しており、実際に三波石は川の流れがあったからこそきれいな状態を保つことができていた訳です。
ところが1968年に下久保ダムが完成して発電所が運転を開始すると、取水された水が峡谷よりも下流に放流されるようになります。その為、ダムから発電所の放流口までの約4kmの区間、すなわち三波石峡の大半の部分に水が流れなくなり、以後30年以上、無水区間となってしまいます。
これにより三波石は黒ずんで輝きを無くし、河原は雑草だらけとなって三波石峡は荒廃。美しい景観は見られなくなってしまったのです。
しかし1997年に河川法が改正されたことにより、下久保ダムでは河川維持放流を行って三波石峡の清流を復活させる「下久保ダム水環境改善事業」に乗り出します。これによって2001年に三波石峡の清流を蘇えらせることができたのです。
今でもテクノロジーと自然の共存は大変難しい課題です。とはいえ美しい自然の景観は人間の手で生み出すことはできませんから、今後も大切に守っていかなければいけませんね。
2023年1月24日
M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』
KING OF JMK代表理事 渡邉 俊