44枚の上毛かるたの中には8枚の人物札がありますが、『こ』はそのうちの1人である『内村鑑三』を詠んだ札です。
今でこそ、内村鑑三の名前はほとんどの群馬県民に知られていますが、実はこの札が上毛かるたに採用されるまでには深い物語があったのです。
そもそも内村鑑三はいったい何をした人物なのか?皆さんはご存知でしょうか。
1861年に高崎藩で生まれた鑑三は16歳の時にクラーク博士で有名な札幌農学校に入学し、そこで出会ったキリスト教の教えに深く感銘を受けます。
その後、アメリカにも留学して神学を学び、帰国後は生涯に渡って日本国内に西洋思想を広めようと尽力しました。
特に1904年に勃発した日露戦争の時には、『非戦論』という戦争反対の意見を唱え、自らの考えを訴え続けたのです。
このように、戦争をせずに日本を明るい将来へと導こうとした人物として、かるたでは『心の燈台』と表現されています。
しかしかるたが制作された1947年当時、内村鑑三の名前はあまり庶民には知られていなかったのです。
実際に当時上毛新聞でかるたの札の題材を県民から公募した際、新島襄や関孝和などは多くの方から案が寄せられた一方で、内村鑑三を載せるという案はわずか1案しか出てきませんでした。
その原因は、先ほどお話しした『非戦論』。この考えは戦争に賛成する意見の多かった日露戦争当時に多くの人から反発を受け、鑑三の考え方そのものが隠されてしまっていたからです。
もちろん、その正しさは太平洋戦争の敗戦後に多くの方が身に染みて分かるようになるのですが、長い間、内村鑑三の思想は闇に葬られていた訳です。
しかし上毛かるたの制作者達は、公募でわずか1案しか出てこなかった内村鑑三を『こ』の札として採用しました。
これは戦争反対の内村鑑三の考えを後世に伝えたいという制作者の強い意志もあるのですが、あえてキリスト教に関連した札をかるたに入れる事で、GHQの検閲を通しやすくするという制作者の狙いがあったとも言われています。
上毛かるた制作時はまだ連合国軍の統治下にあった日本。当時国内全ての出版物にGHQが目を光らせており、たかがカルタとは言え制作者達は命がけでGHQと交渉し、またあらゆる手を使って発行へとこぎつけたのです。
上毛かるたは来年で発行75周年を迎えます。これを期に、上毛かるたを通じて平和の尊さを再確認したいですね。