2021年10月19日放送 - ほ:誇る文豪 田山花袋


人間の美しい部分だけではなく、みにくい部分も隠さず表すことを信条とした『自然主義文学』。この『ほ』の札は、日本の自然主義文学の第一人者である田山花袋を詠んだ札です。

 

 

1871年に館林で生まれた田山花袋は、19歳の時に尾崎紅葉に入門し小説家を目指します。

そしてその時に出会ったヨーロッパ文学に影響を受け、『蒲団』や『田舎教師』など数多くの作品を残しました。

また同じく代表作である『ふる郷』などの作品には、『は』の札に詠まれている当時の花山公園が描かれており、現在その公園の隣には田山花袋記念文学館が建てられています。

 

 

さてこの田山花袋、現在では群馬県民なら知らない人はいない位の知名度がありますが、実は上毛かるたが制作された1947年当時はあまり知られていない作家でした。
その為、当時かるたを制作するにあたって札に詠む内容を県民から公募したのですが、新島襄や関孝和などは多くの案が寄せられたのに対し、田山花袋を札にする案はゼロでした。

 

 

ではなぜ全く案が寄せられなかったにも関わらず、田山花袋が上毛かるたに詠まれたのか、皆さんはご存知でしょうか?

実は、田山花袋は46歳の時に『東京の三十年』という自伝小説を書いているのですが、この本の存在が非常に重要なのです。

 

 

 

 


その物語の中には、明治時代の国民が東京の靖国神社に親しみを持って参拝する情景が描かれています。また田山花袋自身も幼い時に西南戦争で父が戦死しており、その父に会う為に靖国神社に通い、心を奮い立たせるという場面があるのです。

 

 

その為、上毛かるたの制作者である浦野匡彦さんはこの小説を多くの人に知ってもらうことで、『靖国は本来軍人の為の神社ではなくて幕末以降の日本近代化に尽くした人々を祀った神社であり、だからこそ戦後は日本人が祖先を敬う場として靖国神社を再興すべきだ』という自身の考えを広めたいと考えたのです。

 

 

しかし当時の日本はGHQの統治下にあり、上毛かるたの発行にも彼らの許可が必要な訳ですが、当然そんなことをあからさまに伝えることはできません。

その為、かるたの札には田山花袋のみを登場させ、『いつかこの小説の存在をたくさんの人に知ってもらいたい』という願いを込めたのです。

 

 

正直、この札を見てどれほどの県民がその思いを読み取れたかは分かりません。

しかし、ほとんどの県民に知られていなかった田山花袋という文豪の存在を上毛かるたによって知らしめることができたのは事実かと思います。

 

 

今年2021年は田山花袋の生誕150周年。館林にある『田山花袋記念文学館』ではそれを記念した特別展が117日まで行われています。皆さんも是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

2021年10月19日

M-wave Evening Express 84.5MHz『上毛かるたはカタル』

 

KING OF JMK代表理事 渡邉 俊