上毛かるたの札の中でも一番重要である『つ』の札。
これはその詠みの通り、群馬県の形を『鶴』に例えて表した札です。
上毛かるたは44枚の札を取り合う競技で基本的には1枚1点として計算する訳ですが、となると考えられるのが22対22の同点というケース。
その場合はこの『つ』の札を取った人が勝ちとなる、通称『つ勝ち』という上毛かるた独特のルールがあります。
リスナーの皆様の中にもこの『つ』を取った取らないで泣いたり喜んだり、はたまたケンカしたりという思い出があるのではないでしょうか?
さて、そもそも上毛かるたは長野原町出身で後に東京の二松学舎大学の学長も務めた浦野匡彦先生が中心となって企画され、1947年に発行されました。
そしてこの『つ』の札には、戦争と平和にまつわる浦野先生からの2つのメッセージが込められていることを皆さんはご存知でしょうか?
そもそもこの『鶴舞う形』という表現、もともとは現在のみどり市出身の作詞家:石原和三郎(いしはらわさぶろう)が作った『上野唱歌(こうずけしょうか)』の一節、「晴れたる空に舞う鶴の姿に似たる上野は・・・」という部分に由来しています。
しかし戦時中は戦意高揚の為、この歌の『鶴』の部分を『ワシ』や『タカ』に変えて歌われていたのです。
その為、終戦後は平和な世の中を取り戻す為にも『いち早くこれを”鶴”に戻して定着させたい』と考え、敢えて上毛かるたで『鶴舞う形の群馬県』と詠ったのです。
また浦野先生は戦時中に仕事で満洲に滞在しており、終戦前に日本へと帰国をしたのですが、敗戦後、満州に滞在していた仲間たちがソ連軍の侵攻にあい、シベリアに連れて行かれてしまったことを知ります。
いわゆる『シベリア抑留』であり、この時約60万人の日本人が寒いシベリアで不当な労働を強いられ、そのうち約6万人が飢えと寒さで亡くなったと言われています。
この仲間たちに対し、浦野先生は遠く離れた群馬で、
『家族の元に帰れる日まで頑張り、せめてシベリアから日本に飛び立つ渡り鳥の鶴に心を託して、一歩でも二歩でも南下して欲しい!いつか必ず救出してみせる!』
と誓いました。その思いをこの札に込めたという訳です。
以前からこの「『上毛かるた』はカタル」でも紹介している通り、上毛かるたは終戦直後に制作されたものなので、1枚1枚の札には戦後の思いや出来事が色濃く残っています。
来月になると76回目の広島・長崎の原爆の日や終戦記念日がやってきます。上毛かるたを通じて是非1度平和の大切さを考えてみて下さいね。